第六百四十二夜 山口誓子の「大文字」の句

 もう50年も前になる。中学校の夏季学校で、箱根の強羅に一泊したことがあった。すっかり忘れていたが、大文字焼きが行なわれる山の名は、大文字山(明星ケ岳)という。私たちが見たのは、16日の夜の大文字焼きではなく、法被姿の男達が松の薪を組む作業であった。
 後に、テレビで見た箱根強羅大文字焼きの「大」の文字の美しかったこと! 私たちは、大文字山のどの道を登り、どの薪の傍を通りぬけたのだろう!
 
 箱根強羅大文字焼きは大正10年(1921)、避暑客の楽しみのために始まった行事で、現在は箱根全山の有縁無縁の精霊の冥福を祈って、盂蘭盆の送り火として行われている。山腹に燃える「大」火文字は、第1画が108m、第2画が162m、第3画が81m、太さが7.5mであるという。
 今年は、この行事が始まって、<2021年8月16日>100周年の『箱根強羅 大文字焼き』であるが、豪雨という悪天候のため送り火の点火と花火は中止となり、22日に延期されることになった。
 
 京都の大文字焼きは、夜の8時に点火された。しかし「大」の文字形ではなく、数箇所だけ、高く組み上げられた薪に点火された。中継の最後は遠くからのカメラワークで、大文字山の中腹に大きな炎が「点」となって見えた。
 主催者側は、後世の人たちが、2021年の大文字焼きは、「点だったよ! と思い出してくれたら嬉しいのだが・・!」と述べていた。
 
 今宵は、「送り火」「大文字」「精霊舟」の俳句をみてみよう。

■大文字の句

  燃えさかり筆太となる大文字  山口誓子 『新歳時記』平井照敏編
 (もえさかり ふでぶととなる だいもんじ) やまぐち・せいし

 送り火の炎が燃えさかった時、炎で出来ている文字はまさに「筆太」となる。大文字焼きの「大」の文字は今ふとぶとと目の前で燃えているのですよ、という句意となろうか。
 
 大文字焼きの炎が燃えさかった時に、誓子は「大」の文字が「筆太」に見えたのだという。炎で燃やされ、「大」を象った文字ではあるが、それにしても炎を「筆太」と捉えることは容易いことではないと思った。

■精霊舟の句

  精霊舟ギヤマンの星夜焦し燃ゆ  野見山朱鳥 『現代俳句歳時記』角川春樹編
 (しょうりょうぶね ギヤマンのせいや こがしもゆ) のみやま・あすか

 野見山朱鳥は福岡県直方市の出身。18歳で肺結核となり療養生活をした。療養先で俳句と出合い、「ホトトギス」の高浜虚子に師事する。結婚し、俳誌「菜殻火」を創刊・主宰する。
 
 掲句は、長崎の「精霊舟」を詠んだものであろうか。真菰や麦わらで舟をつくり、盆の供物、飾り物などをのせて川に流す、16日の送り火の行事である。中七下五の「ギヤマンの星夜焦がし燃ゆ」から、夜空にギヤマン(ダイヤモンド)のように煌めく星空をも焦がさんとする精霊舟の灯の美しさである。
 
 長崎出身の夫から聞いたことがあるが、大店の主人や大地主や有名人などの初盆で市内を練り歩く精霊舟は、それはそれは豪華で見事であったという。長崎の精霊流しは、ことに有名である。

 作品を探していて、〈もう行つてしまふか夫の仏舟〉という納屋春子さんの句に出合った。迎え火を焚いて、十万億土から戻った夫の魂を身近に感じていた盂蘭盆の3日間であった。心豊かな時間であった。
 今宵は、仏舟(精霊舟)に乗って再び浄土へと行ってしまうのですね、という妻の呟きの句である。