第六百四十三夜 栗島弘の「夏葱」の句

 栗島弘さんを知ったのは、この8月の初め頃。深見けん二先生の「花鳥来」にともに所属している浦部熾さんからのハガキに書かれた作品1句がきっかけであった。栗島弘さんは黒田杏子先生の「藍生」の会員であり、浦部熾さんも「藍生」の会員である。
 ハガキには、創刊から知り合えた、1番の憧れの栗島さんが1と月前に亡くなられてしまわれたことと、〈夏葱の紙の音してむかれけり〉の句が書かれていた。私は、忽ち「紙の音して」の表現に引き込まれてしまった。
 熾さんにお願いして、栗島弘さんの第1句集『遡る』をお借りすることができた。

 黒田杏子先生の序文「含羞というダンディズム」は、栗島弘論であり、そこに書かれた「十年の歳月は私たちの友情を句縁に結ばれた同志としてのものに高めてくれた。」の言葉は栗島弘への最高のエールであった。
 
 そう思い、いざ俳句へと読み進んでいった。
 最後の「あとがき」を読み終えた。
 
 「序文」「前章、後章の作品」「あとがき」の全てから、1つの世界、1人の俳人が立ち現れた。と、思ったが、そうは行かない。
 作品は、多彩であった。
 
 今宵は、『遡る』より、ごつんごつんとぶつかりながら鑑賞を試みてみようと思う。

■1句目:前章より

  夏葱の紙の音してむかれけり
 (なつねぎの かみのおとして むかれけり)
 
 わが家は、夫が畑を作っている。畑仕事を一切しない女房の私は、ねがわくは畑で外側の菜を剥ぎ取ってから、持って来てほしい。
 この作品に出合い、夏葱の皮ってからからに乾いているの? と夫に質問をしてしまったが、「乾いているよ」と教えてくれた。
 玉葱の皮のことは、家のベランダで紐をつけて吊るして乾かすので、剥く時には、紙の音・・しかも薄皮の音がすることは知っていたが、栗島弘さんの作品によって、「紙の音」であることを言葉として確認できた。

■2句目:後章より

  青蜥蜴をとこのやうに目をそらす   
 (あおとかげ おとこのように めをそらす)

 私は、この「をとこのやうに目をそらす」が凄く気にかかった。男性は、好きな女性を見ても女性がその男の視線に気づいたことがわかるや、すぐさま目を外らす。
 たまたま出くわした蜥蜴。〈二尺ほど飛んでふりむく蜥蜴かな〉のあと、立ち止まって作者を見た蜥蜴は、まさに、「をとこのやうに」目を外らしたのだった。
 
 栗島さんは、蜥蜴に人間の男の目とおなじ動きを見た。

■3句目

  やつかいな妹の来るクリスマス
 (やっかいな いもうとのくる くりすます)

 「やつかいな妹」は、栗島さんの妹のことであろう。やっかいな夫は私にもいるし、夫からみれば私は相当なやっかいな妻であろうと思う。つまり、身内の者の行動を、他人はどう感じるのか気にかかることが「やっかいな」ことなのだろうか、とすると本当に「やっかいな」のは己自身となる。

■4句目

  雀の子脚をひろげて跳びおりて
 (すずめのこ あしをひろげて とびおりて)

 そうなのよ、雀の子ってちょっとでも高い所から飛び降りたとき、脚をひろげているのよ。その脚のひらき具合がなんともいえず可愛いのよね、という声が聞こえてきそう。
 人間の子も、幼いころは、足を揃えて着地しなかったことを思い出すが、バランスを取ることに身体が慣れていないからであろう。
 
■5句目

  猫の恋本音で生きてなどゆけぬ
 (ねこのこい ほんねでいきて などゆけぬ)

 「猫の恋」の季語が力強くいきいきしている。読者には春の夜のあの凄まじい追いかけっこがまざまざと蘇る。「ギャオ-、ギャオー、ギャーオ-!」の声とともに1匹が1匹を追いかけてゆく。この時、猫の恋は本心であり本音で追い回している。でもその様を見ている方はどうであろう。案外しらーっと、うるさいなーと思うだけである。
 
 猫の恋を眺めている作者の栗島さんは、無様な姿も心の奥も、人様には見せたくないですね、もっと複雑にもっと爽やかに生きてゆくのが栗島流の生き方ですよ、なのかもしれない。

■6句目

  花冷を一艘の遡るなり
 (はなびえを いっそうの さかのぼるなり)

 句集『遡る』の掉尾を飾る作品が掲句であり、作者自身を思わせる一隻の舟が厳しさの残る花冷の中を、水の流れに逆らって進んでゆく一幅の景である。
 
 著者のあとがきにこのように書かれていた。
 「この十年間、私は俳句の道をわがまま放題、勝手きままに歩んできた。ひたすらな沈黙であるはずの俳句を、饒舌に語ってみたり、ときには師が左を指せば右に向かい、回り道をせよという急坂を駆けのぼったりもしてみた。(略)どうも師の掌の上の孫悟空にすぎなかったようにも最近感じはじめている。」と。
 
 この作品は、俳句の道を一筋に進まんとする栗島弘さんの覚悟であるように思えてきた。