第六百四十九夜 原石鼎の「花影婆娑と」の句

 小学生の夏休みは、午前中に夏の課題の宿題を終えてしまうと、お昼からは、毎日のように女の子の私でも鉄砲玉のように家を出たら夕方まで、友だちの家で過ごしていた。もちろん、わが家が遊び場となる日もあったが、ずうっと居ても過ごしやすい大家族の家の友だちがいた。
 時には、午前中から遊びに出かけることもあった。お昼は友だちのお母さんが作り置いていある、大きな鍋いっぱいの豚肉入キャベツ炒めを自分たちでお皿に入れて食べた。一人っ子のわが家とは違って、大家族のお母さんというのはおおらかだった。
 午後は、それぞれ畳に寝転んで勝手に本箱から出した漫画本や小説を読んでいた。夕方、いつものように帰宅した。
 
 その日の私は、母に散髪をしてもらったが、母が前髪を短く斬りすぎたことで泣かんばかりにヘソを曲げていた。ぷいと家を出て、友だちの家に行ったのであった。午前中から夕方暗くなるまで、家に帰りたくなかった私は、その日たしかに「1日の家出」だったのだと、70年近く過ぎた今でもそう思っている。
 母も気づいていないようだったし、友だちの家でも誰も私の夏休み中の「1日の家出」には気づいてはいなかったようだ。
 
 今宵は、俳壇復帰した虚子の「ホトトギス」を代表する新人・原石鼎の句をみてみよう。
 
 高浜虚子は、明治45年7月号で「ホトトギス」の刷新を始め、雑詠欄を再開した。『ホトトギス巻頭句集』をみると、渡辺水巴、原石鼎、前田普羅が巻頭を占め、次に飯田蛇笏、村上鬼城など個性ある作家が出てきた。この時期は後に、第一次黄金期と呼ばれた。
 虚子は、「大正二年の俳句界に二の新人を得たり、曰く普羅、曰く石鼎」と言い、石鼎は虚子から「豪華、跌宕(てっとう)」と評された。跌宕とは、物事にこだわらずのびのびしていること。
 
 原石鼎の作品を1句を紹介してみよう。虚子は雑詠欄の創設以降の巻頭作家から、32人の各人評を試み、「進むべき俳句の道」と題して作家論を書いた。じつに行き届いた鋭い筆力で、丁寧に鑑賞している。
 今宵は、その「進むべき俳句の道」に書かれた、高浜虚子の評をそのまま紹介してみよう。

■1句目

  花影婆娑と踏むべくありぬ岨の月  『原石鼎全句集』
 (かえいばさと ふむべくありぬ そばのつき) はら・せきてい

 君の句は前にも一寸言つた通り、豪華、跌宕とも解すべきものであつて、全体が緊張して調子の高朗のものが多い。君の感情は常に興奮している為に平々坦々たる句の如きは君の創作慾を満たすのに十分なものでは無いであろう。(略)
 「花影婆娑と」の句は、岨道を歩いてゐると、空には月が出てゐる。そこに突き出てゐる桜の枝は空の月の光りを受けて其影を地上に落してゐる。婆娑は影の形容で、其岨道を歩いて行くと自然其花の影を踏んで通らねばならぬ、よろしい、面白い此景色のもとに我れは其影を踏んでやらうといふのである。これも只客観的に叙するならば、「花影婆娑と路上にあるや岨の月」とでもいふべきであるが、作者の興奮した感情はさういふ冷ややかな客観叙法では満足が出来ないで、われはあの影を踏まねばならぬ、よろしい踏んでやらうといふところまで立入つて、打興じた心持で此句は出来たのである。『定本 高浜虚子全集 第十巻』毎日新聞社刊
 
 これまで私は、どうやら、この句の情景を今ひとつ理解できていなかったことに気づかされた。険しい山道に月の光のよって桜の花影が、婆娑という言葉でなければいけないほど激しく舞うように岨道に落ちている。この美しい光景に石鼎は興奮した。「踏むべくありぬ」は、踏まなくてはならぬようにこの花影が地上に散り敷かれていたということであろう。
 
 この作品の中七の「踏むべくありぬ」が、石鼎の最も強調したかったことで、じつは、石鼎は子どもが影絵遊びに興じるように月の岨道で花影を踏んでいたのではないだろうか。