第六百五十夜 あらきみほの「春の愁ひ」の句

 平成11年の2月11日、牡丹雪の霏々と降りしきる早春の夕方、ペットショップから段ボール箱に入れられて黒いラブラドール・リトリバーの仔犬がわが家にやってきた。お姉さんがペットショップを探し回り、下調べをし、この黒ラブに出会い、買ってきたのだ。
 箱から出てきた生後2か月の仔犬は、全身まっ黒で、睫毛も、鼻の先も、足の裏も、つややかな黒だ。よく動く目玉の白だけが目立った。床に下ろすと、仔犬の足はふらふらしている。用意していたケージに入った2か月の仔犬は端っこで頼りないほど小さかった。
 「メスなの、それともオス?」と、お母さん。
 「女の子っていうのよ!」と、お姉さん。
 「血統書付きだとメスって言わないのね。前に飼っていた雑種犬はオスだったわ!」
 そんなことはどうでもいい、お母さんはすぐに抱き上げた。
 「まあ! あなたの目はサファイアみたい! 深い海の碧色なのね!」
 つまり人間で言えば、びっくりするほど可愛いということ。仔犬はあっと言う間に家族中を魅了してしまった。お父さん、お兄さん、おばあちゃんと、仔犬はかわるがわる抱かれた。
 この度「犬を飼いたい!」と、ペットショップを探し回って、この黒ラブに出合ったのが、この家の長女のお姉さんだ。
 お姉さんは威厳のある声で宣言した。
 「オペラという名がいいわ!」

 8月24日は、わが家の1代目のラブラドールレトリバーの黒犬オペラが13年間の命を全うした日だ。毎年の命日には朝、仏壇にはオペラの写真が飾られてローソクが灯される。今朝も、早起きのお父さんがやってくれていた。
 
 今宵は、折々に詠んだ犬のオペラ俳句を見ていただこう。

■1句目

  仔犬抱き春の愁ひも抱きあげし  あらきみほ
 (こいぬだき はるのうれいも だきあげし)

 仔犬を育てることは、食べること、排泄のこと、運動のこと、睡眠のことなど、子どもと同じ。ある時期までは目が離せない。人間は1年目が節目、犬は7ヶ月目が節目であるという。
 
 句意は、可愛い仔犬を抱き上げながら、無事に育ってほしいと心を砕いて育てているが、いつも抱えている一抹の不安感が「春の愁い」ということ、となろうか。

■2句目

  はつゆめの同じ枕に犬の鼻  あらきみほ
 (はつゆめの おなじまくらに いぬのはな)

 オペラが私のベッドに上がってきたのは、避妊手術で2日入院して戻ってきた日である。手術後、購入したペットショップへ迎えに行くと、オペラは照れたようにしらっとした顔をしていた。
 その夜、室内に置いた犬用のケージには入りたがらない。私のベッドの下に犬用の布団を運んだ。しばらく、じっとしていたが、少ししてベッドの足元に上り、つぎに枕元へ来て、ついには枕に頭をのせて来た。気がついたらオペラの鼻が間近にあった。
 
 この作品はお正月のこと。「同じ枕に犬の鼻」の朝を迎えるのは、慣れた頃のことであった。季語「はつゆめの」として、常とは違う雰囲気が出たのではないだろうか。

■老衰

  病む犬を大夕焼に抱きあげり  あらきみほ 
 (やむいぬを おおゆうやけに だきあげり)

 12歳の夏の初め頃から、足と腰が弱ってきた。2階まで階段を登って私のベッドには来れなくなった。夜型の夫が1階の部屋にいるので、この頃から夫と一緒に過ごすようになっていた。
 
 掲句は、1階のベランダで日向ぼっこをしたり、歩く練習をしたりした頃のことだ。いろいろな練習が終わるとオペラは抱き上げてもらった。

■夫の句

  夏痩せの老犬とみにやさしき眼  百万本清 
 (なつやせの ろうけんとみに やさしきめ) ひゃくまんぼん・きよし

 オペラは大型犬。ピーク時には30キロを超えていた体重は、亡くなる前には25キロになっていた。特に、2階へ上がれなくなってからのオペラは夫と過ごす時間が長かった。夜中や早朝に目を合わせると、最晩年のオペラの眼のやさしさに触れることが多かったと思う。
 
 今日が最期かもしれないと感じた日、この夜、どうしても私が傍で看取りたかった。2日ほど、何も食べようとしなかったので、かかりつけの医者から安楽死をしますか、と訊かれたがわが家へ連れて帰った。1階のリビングに敷物をして、冷やした砂糖水をガーゼで含ませながら夜を過ごした。
 オペラは私の腕を枕にしている。冷蔵庫まで冷たい砂糖水を取りに行こうとすると、離れないでと「ウーッ!」と拒否の声を上げる。夜が白みはじめた頃、真っ黒いウンチをした。お医者さんから聞いていた最期に近いというウンチであった。
 
 私が市役所に問い合わせたり、犬の焼場を探したりしている間にオペラは息を引き取った。夫は大家族で育っているので、犬のオペラのことを、家族の最期のように手厚くしてくれた。
 平成24年8月24日、13歳であった。夫は〈戒名は愛憐信女オペラ逝く〉と詠んだ。