第六百五十一夜 角川春樹の「新松子」の句

 1844年8月25日は、ニーチェが56歳で死んだ日である。フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェとは、ドイツ・プロイセン王国出身の哲学者、古典文献学者。
 『毎日楽しむ 名文365』を編集したあらきみほは、この中に、ニーチェに関する1文を選んでいた。
 萩原朔太郎の書いた「ニイチェのアフォリズム」である。1部を紹介しよう。

 ニイチェの理解に於ける困難さは、多くアフォリズムの形式で書かれて居ることにある。彼がこの文章の形式を選んだのは、一つには彼の肉体が病弱で、体系を有する大論文を書くに適しなかった為もあろうが、実にはこの形式の表現が、彼のユニイクな直覚的の詩想や哲学と適応して居り、それが唯一最善の方法であつたからである。アフォリズムとは、だれも知る如くエッセイの一層簡潔に、一層また含蓄深くエキスされた文学(小品エッセイ)である。したがつてそれは最も暗示に富んだ文学で、言葉と言葉、行と行との間に、多くの思ひ入れ深き省略を隠して居る。即ち言へば、アフォリズムはそれ自ら「詩」の形式の一種なのである。
 
 今宵は、「新松子」「青松毬(青松笠)」「松ぼくり」の作品をみてみよう。
 
 「新松子(しんちじり)」の「ちじり」とは、松かさのことで、今年できた「松かさ」が新ちじりである。色は青く、みずみずしい。枯れてくると乾いて鱗片が開いて種をおとす。種をおとしたものを「松ぼっくり」という。愛らしい形なので、見ればつい拾ってしまう。絵の具を塗って、クリスマス飾りにしたこともあった。
 
■1句目

  将門の首を洗ふや新松子  角川春樹 『現代俳句歳時記』角川春樹編
 (まさかどの くびをあらうや しんちじり)

 この作品は、茨城県常総市神田山の延命院にある平将門の胴塚あたりで詠まれたのではないかと想像している。
 私が、近くの菅生沼が白鳥飛来地であることを知って通りすがりに立ち寄ったのが延命院であった。入口に小さな「将門の胴塚」の立札がある。広い境内には多くの桜の木があり、駐車場は松林にかこまれている。

 将門は、天慶3年(940)の東国での合戦で破れたとき、切られた首は京都に送られ、残された将門の遺体を神田山(かどやま)の延命院境内に葬ったのがこの胴塚だと伝えられている。将門伝説は諸説あるが、殺され、首を切られたのはこの常総市神田山であったようだ。
 延命院では歴史に詳しい人に出合う。挨拶をすると教えてくれる。私も俳句仲間を案内しては知り得たことを語っている。
 
 掲句は、角川春樹氏もこの地を訪れたのであろう。東京にも京都にも将門の首塚があるが、この延命院の大きな榧の木の下で殺戮され、首を切られ、首は洗われて、京都に届けられたことを偲んでいるのだろう。辺りに転がっている松の木から落ちたばかりの新松子が、ふっと将門の切り落とされた首のように感じられたのかもしれない。

■2句目

  異質のごと新しき松かさ草に正座  金子兜太 『現代歳時記』成星出版
 (いしつのごと あたらしきまつかさ くさにせいざ)

 金子兜太の俳句は、視覚的に捉えたことや意識を尖らせて感じたことの、その両面から得た言葉を、削ぎ落とすことなく、ダイナミックに俳句に入れてしまおうとしているようだ。
 高浜虚子の客観写生に反発したのが新興俳句であり、戦後の社会性俳句であり、金子兜太の前衛俳句運動であり、兜太独自の造形俳句である。
 
 兜太俳句に触れるたびに思うことは、作品の内容に惹かれることである。字余りの作品が多いように思うが、それは金子兜太にとって必要不可欠な言葉だという。
 「異質」とは、性質が違っていることである。
 
 句意は、次のようであろう。新しい青松かさが草の上に落ちてきた。転がってきた形ではなく、松かさは草の上に正座のような形に止まったという。作者はこの展開が意外で、異質なように感じた、となろうか。
 
 青松かさの「正座」は、いかにも愛らしい。この「正座」が下五に置かれたことで、私は迷わず「新松子」の例句に選んでいた。