第六百五十三夜 伊藤翠柳の「冬晴」の句

 深見けん二先生の「花鳥来」で、初めて伊藤翠柳さんにお会いしたのは平成元年であったと思う。昭和4年生まれの翠柳さんは、当時60歳で昭和20年の私は43歳。「花鳥来」第1回目の稽古会は平成3年の秩父吟行であった。翠柳さんは、岩に凭れて俳句を考えていらした。翠柳さんは、白髪で色白の美しい方であった。
 
 後に、翠柳さんの句集『初音』『月』の2冊、文集『花まんだら』の制作をさせて頂くことになったことは、ご縁であったような気もしている。
 句集の2冊から俳句を、1冊の文集から翠柳さんの背後にある心持ちをお伝えできればと願っている。
 
 今宵は、句集『初音』と『月』から、作品を紹介させていただこう。
 
■1句目

  冬晴や畑の中の童子堂 『初音』
 (ふゆばれや はたけのなかの どうしどう)

 「花鳥来」の第1回目の稽古会は、平成3年11月9日、11日。1グループ15名、2グループがそれぞれ1泊2日で、秩父市寺尾「せせらぎ荘」で行われた。「少人数のきめ細かな句会を」ということで、早朝から夜遅くまで、けん二先生を囲んで、吟行と句会と討論が行なわれた。A組は15名、B組は12名。翠柳さんも私もA組に参加していた。
 立冬を過ぎた冬晴の日、A組は午後に1回目、夜に2回目、翌日の午前に3回目の句会をした。
 翠柳さんの1回目 冬晴や畠の中の童子堂 日々
      2回目 夕暮の迫る畑の捨大根 
      3回目 音がして先ず手をかざす焚火かな
 
 掲句は後に、「畠」が「畑」に推敲されている。札所22番の「童子堂」は、珍しい藁葺き屋根の仁王門が立っている。30年前の秩父はまさに「畑の中の」であり、ぽつんと建っていた茅葺屋根の形を思い出す。
 秩父札所22番の童子堂の由来は、大昔、子供の間に天然痘が大流行したとき、山奥の華臺山から観世音を勧請し祈祷したところ、疫病はぴたりと治まったという。以来子供の病気一切に霊験あらたかだというので童子堂と呼ぶようになったと言われている。
  
■2句目

  初音聞く団地の階を降りながら 『初音』
 (はつねきく だんちのかいを おりながら)

 平成3年2月、防衛医大病院第一外科入院。前書に、お世話になったDr.門田先生、吉田先生、田口先生、谷原先生、上藤先生。詞書には次のように書かれている。
 「第1回目の手術をするために入院する日、荷物を持って家を出たときにできた句です。私の運命はその日からがらりと変りました。この句集の題は、この句から取りました。」

 第1句集『初音』は、手術に始まり入院退院を繰り返す日々で、そうした前書のある作品のなんと多いことであろうか。「花鳥来」の初めての稽古会に参加されていたが、病気の小康状態のときであったようだ。病気の素振りは見せず、小柄で細身ではあったが美しい白髪のきりっとした方であった。
 
 あとがきに、「病気になり辛いときも、どんなに俳句に助けられ、慰められたことかしれません。句会に出席できる時を目標に致しております。」と書かれていた。

■3句目

  初鏡活けある花の裏ばかり 『月』
 (はつかがみ いけあるはなの うらばかり)

 鏡と活け花の位置関係はどうなっているのか、考えてみた。最初は鏡を見たとき、後方に置かれた活け花ではないかと考えたが、その場合は鏡には活け花の裏ではなく表が映っているはずだと思った。
 
 では「裏」とはどういうことだろう。鏡の前に置いた活け花であるならば、翠柳さんが鏡を見たときの活け花は、翠柳さんと鏡の間にあることになるので、鏡には、翠柳さんの顔と活け花の裏側だけが映っていることになる。随分と面白いアングルを捉えた作品だと思った。
 
 だが「裏」という言葉には、人には告げない、見せない、翠柳さんの心の奥深く仕舞ってあるものを感じさせる。きっと裏も大事だという活け花の師範である翠柳さんの矜持なのであろう。