第六百五十四夜 正岡子規の「鶏頭」の句

 1963年8月28日は、リンカーン記念堂の前でマーティン・ルーサー・キング・ジュニア(キング牧師)が演説を行った日である。 
 アメリカ合衆国のプロテスタントバプテスト派の牧師で、キング牧師(キングぼくし)の名で知られ、アフリカ系アメリカ人公民権運動の指導者として活動した。
 1863年、リンカーン大統領によって行われた奴隷解放宣言によりアメリカ合衆国での奴隷制は廃止された。法的にはアフリカ系アメリカ人は奴隷の立場は脱したが、奴隷制度からの解放とは、直ちに人種差別の撤廃を意味するものではなかった。
 キング牧師が公民権運動の指導者になったのは、モンゴメリーで起きた黒人女性ローザ・パークスのバス・ボイコット事件がきっかけであった。
 
 1963年、私は英米文学科の大学1年生で、最初に興味をもったのがアメリカ文学。東大の老教授による授業は黒人文学であった。キング牧師は文学者ではないが、当時のアメリカで起きたホットなニュースとして、キング牧師の演説「私には夢がある(I have a dream)」の演説を聞かせてくれた。
 「私には夢がある。」それは、いつの日か、この国が立ち上がり、「すべての人間は平等に作られているということは、自明の真実であると考える」というこの国の信条を、真の意味で実現させるという夢である。」「私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である。」と。

 1968年、キング牧師は遊説中のテネシー州メンフィスで反対勢力により暗殺された。
 今思うと、当時の黒人の夢はまだ素朴な夢であった。何事も小さなことからの改革を実行に移すことが大切なのであろう。
 
 今宵は、キング牧師を彷彿とさせる正岡子規の「鶏頭」の作品をみてゆこう。

■1句目

  鶏頭の十四五本もありぬべし  正岡子規 『子規句集』
 (けいとうの じゅうしごほんも ありぬべし) まさおか・しき

 賛否両論のある作品であることは、何人かの論評で知っていた。
 宮坂静生著『子規秀句考―鑑賞と批評―』には、「明治33年9月9日、子規庵での19名による第2回運座で出された。この回は一題十句。最初、未熟、平凡な着想も四句五句と詠みすすむうちに一題を深く新鮮に解するようになり、十句近くなると、想像尽くし、言い尽くして、ことばが自在にはたらく堺にまでとどくようになるわけである。」とあった。
 
 賛成派である山本健吉著『現代俳句』には、「この句の真価の最初の発見者は、子規門の中でも繊細の精神の所有者である歌人長塚節である。」「この句がわかる俳人は今はいまい」などと茂吉に言ったという。そしてこの句の真価を世人に認識せしめたのは茂吉の『竜馬漫語』であった。
 否定派は高浜虚子。「虚子が新たに編纂した岩波文庫版『子規句集』(昭和十六年刊)には、二万三千六句も選んだ中に、相変わらずこの句が入っていない。驚くべき頑迷な拒否である。」と、『現代俳句』の中で山本健吉は述べていた。
 私はまだ、虚子の膨大な著作の中で、この句に関する文章は見ていないような気がしている。
 
 子規が亡くなったのは明治35年9月17日。2年前の明治33年の頃は、すでに寝たきりになっていたが精力的に次々と、俳句革新、短歌革新、文章革新という文学的仕事を成し遂げていた。
 
 子規庵の寝間の戸を開けると庭が見え、その庭には鶏頭も植えられていた。鶏頭は、茎の先端が鶏の「とさか」に似ていることから名付けられた花で、とさかの下に小花が群れて咲く。
 
 句意は、庭に咲いている鶏頭の花は、十四五本はあるにちがいない、となろう。
 
 そのままを詠んだ写生句のようにみえる。だが、子規の仕事ぶりや生きることへの凄まじい執念を考えたとき、赤い塊の「鶏頭」は、子規の分身のごとく好みの花のように見えてくる。
 「十四五本」という鶏頭の本数も賛否両論の1つであった。かなり迫力ある鶏頭の光景だが、「十四五本」という数も「ありぬべし=アルニチガイナイ」という強い断定も、この作品の不可欠な措辞であった。
 
 あるとき高速道路を降りて畑道を走っていると、畑の端に鶏頭の大きな一叢を見かけた。車を寄せて近づいた。腰の高さほどの鶏頭の花は、大きな顔にも、大きな耳を傾けてくれているようにも見えた。私は慌てて俳句をメモした。