第六百五十六夜 深見けん二の「赤蜻蛉」の句

 東京練馬区に住んでいる頃のことだ。車で10分ほどのところに光が丘公園がある。
 光が丘公園は、第二次世界大戦中は特攻隊の出撃基地ともなった成増飛行場があり、戦後は米軍基地となり、米軍の家族住居・グランドハイツがあった。昭和48年にグランドハイツは日本へ返還され、跡地は巨大な公園となった。巨大な団地、ショッピングモール、病院などができ、西武線も練馬駅で乗り換えて直ぐである。
 
 俳句を始めていた私は、仕事の合間に、父を連れ、夫を連れ、1人で来ることもあった。木々も深々として、欅並木、桜並木と、ずいぶんと俳句の現場になった公園である。
 今日の「赤蜻蛉」は、群れというより、軍団のような何百匹・・もっと多かったかもしれない1団が欅並木を歩いている私と犬の横を、ずんずん一直線に進んでゆくのを見た。羽音のない静かな行進であった。びっくりした私は、通り過ぎるまで眺めていた。
 
 今宵は、「赤蜻蛉」の作品をみてゆこう。

■作品

  人ゐても人ゐなくても赤とんぼ  深見けん二 『雪の花』
 (ひといても ひといなくても あかとんぼ) ふかみ・けんじ

 深見けん二先生の主宰誌『花鳥来』第1号は平成3年3月1日の発行であるが、その前は「F氏の会」が2年ほど続いた。私も最初からの会員の1人である。
 掲句は、けん二先生の第2句集『雪の花』にある。「花鳥来」入会してから、けん二先生の句集を、新品のも古本もあったが手元に置きたくてこぞって購入した。
 『雪の花』を読みながら、好きな句を書き留め、さらに自分なりに厳選して書き留めた。私にとっての二重丸(◎)がこの〈人ゐても人ゐなくても赤とんぼ〉の作品であった。「こうだと思いますが・・」と先生にお伝えしても、にこにこされるばかり、解釈は自由でいいのですよ、ということであろう。
 今も正しい解釈とはどういうことだろうと思いつつ、鑑賞を試みてみよう。
 
 秋になると、赤とんぼがちらっと赤い色を見せながら飛んでいる。草や花のてっぺんにじっと留まって、蜻蛉特有の複眼で見渡している。目の前に私という人間がいても、眼中にないようでもある。
 他の動物なら、たとえば蜥蜴ならどうするだろう。目が合った瞬間に逃げるにちがいない。そう思ったとき、「赤とんぼ」は「人」とか「他の動物」とかを意識しない、別の世界の生き物かもしれないと思った。
 私には赤とんぼが、こよなく自由に生きている「生き物」として魅力的に映った。
  
 昭和52年の『雪の花』から29年後の平成18年刊行の第7句集『水影』の帯文は、歌人の小島ゆかりさん。紹介させていただく。
 
 「 人ゐても
   人ゐなくても赤とんぼ
 「客観写生」とは何なのか。それはあるいは、対象に目を凝らすことにとって、(わたし)を中心とする世界から。(わたし)を中心としない世界へ、その地軸を正すことではないか。この句を読むたびに、新しい秋の空間が見える。」

 (わたし)を中心とする世界から。(わたし)を中心としない世界へ、その地軸を正すことではないか。小島ゆかりさんは「客観写生」をこのように捉えた。すごい鑑賞だと思った。
 
■句の鑑賞とは

 深見けん二著『折りにふれて』の「句の鑑賞」から1部を紹介させていただく。
 
 俳句には鑑賞が必要であります。(略)
 それでは鑑賞とはどのようにすればよいでしょう。俳句は散文と違って、省略し、単純化して表現されていますので、その句をどう解釈するかということを述べ、表面に現れていない、背後にかくれているものを引き出して味わう糸口が説明できませんと、句の本当のよさを理解したとは言えません。鑑賞はあくまで、「よき解釈」で、それがそのまま批評になることは、虚子先生がかねがね言われていた通りです。