第六百六十夜 飯田龍太の「栗打つ」の句

 私は、東京オリンピックを2回観ている。1回目は1964年大学1年生の時、2回目は今回2021年の「東京オリンピック2020」だ。コロナの影響で1年遅れになっているが「2020」のままの命名である。

 パラリンピックをこれほど真剣に観たことはなかった。自国開催の「東京パラリンピック2020」だからであろう。
 障害を持つ選手がこれほど多くいて、障害も人それぞれに違っている。クラス分けをする際に、同じレベルでないと正しい競争とは言えないという不満もあると聞いたが、全く同じ症状、同じ条件というわけにはいかない。
 
 そして初めて気づいたことがあった。
 パラリンピックが1964年の東京オリンピックが第1回目であったということだ。かつては障害のある人がオリンピック参加することは誰も考えていなかったに違いない。
 ドイツのグッドマン博士は脊髄損傷の治療とその後の社会復帰訓練に、スポーツを取り入れるという画期的な手法で驚くほどの成果を挙げていた。日本で取り入れたのは大分県の中村医師。グッドマン博士の、『手術よりスポーツ』という治療方針も、リハビリテーション医学として最も正しいことが理解できたという。
 パラリンピックは、パラは「下半身まひ」を意味する英語のパラプレジア(Paraplegia)の「Para」から。オリンピック(Olympic)を合わせて作られた言葉である。

 9月5日が最終日である。全ての種目を見ることはできないが、最初の、水泳の鈴木孝幸選手の最初の金メダルには驚いた。その日からパラリンピックを見続けた。
 昨日は、車椅子のテニス。学生時代に部活でやっていたこともあったのでルールも知っていた。ラケットを持ちボールを追うだけでなく、車椅子を操りながらのフルセットの試合はさぞ体力的にも厳しかったであろう。
 最終日まであと3日、いろいろな種目でメダリストが決まる。はつらつとした姿と頑張りは、みんなが金メダルを獲れればいいなと思うほどだ。

 今宵は、「栗」の作品をみてみよう。

■1句目
  
  栗打つや近隣の空歪みたり  飯田龍太 『飯田龍太全集』
 (くりうつや きんりんのそら ゆがみたり) いいだ・りゅうた

 句意は、栗の木の実を落とすために、木の下から栗の実を棒で叩いている。棒で打ちながら、作者の目に見えている幹や枝の間の近隣の空は、歪んできたように見えたのですよ、となろうか。
 
 この作品は、栗の木に生っている栗の実を、棒で叩いて打ち落としている光景である。中七下五の「近隣の空歪みたり」は、空が歪んで見えたという飯田龍太の心象風景であり、心のどこかで栗の実といえども「打つ」という行為にたいする後ろめたさ、「栗の木さん、ごめん」の気持ちがあったように感じられた。

■2句目

  みなし栗ふめばこゝろに古俳諧  富安風生 『富安風生句集』
 (みなしぐり ふめばこころに こはいかい) とみやす・ふうせい

 句意は、こうであろう。栗を踏んだ。毬は潰れたがどうやら栗の実が入っていなかったようだ。その瞬間、江戸時代前期の俳諧撰集で、芭蕉が蕉風確立に至る過渡期に編まれた選集「虚栗(みなしぐり)」を思い出しましたよ、となろうか。

■3句目

  いろいろな角出来てゆく栗をむく  深見けん二 『花鳥来』
 (いろいろな かどできてゆく くりをむく) ふかみ・けんじ

 句意は、こうであろうか。栗を剥いている。妻が剥いているのを見ていた作者は、栗の実が硬いからだろうがナイフの刃を入れるたびに、角(かど)ばっていることに気づいた。
 
 第4句集『花鳥来』を戴いたときに、この作品の「角」を「つの」と読んでしまって、「面白い句を作られるのですね」と申し上げてしまった。けん二先生は、「かど、と読んでください」と、にこにこされた。
 お料理上手な奥様が、キッチンのテーブルで栗御飯の準備の栗剥きをしているのを眺めてたときの光景であろう。