第六百六十五夜 山口青邨の「菊咲けり」の句 

 今日は、陰暦9月9日の重陽の節句である。「重陽の節句」は平安時代の初めに中国より伝わったもので、古来中国では、奇数は縁起が良い「陽数」、偶数は縁起の悪い「陰数」と考えられ、陽数の最大値である「9」が重なる9月9日を「重陽」と呼び、節句の1つとした。
 9の数は陽とされ、9の重なることは目出度いこととして、盃に菊を浮かべて飲む。これを菊の日、菊の宴ともいう。中国古俗で、重陽の日に山に登り菊酒を飲み、不老長寿をねがう行事が「高きに登る」である。
 
 「くんち」とは、9日を「くにち」と呼んだことが始まりで、収穫を祝う秋祭りの総称の1つ。旧暦の9月9日、重陽の節句の際に行われた祭り。九州で行われる「長崎くんち」や「唐津くんち」はその名残で、現在では、毎年新暦の10月9日から3日間行われている。長崎に3年ほど住んで、1度観に行ったことのある諏訪神社の急な階段を繰り出す「蛇踊り」は勇壮であった。
 長崎は、中国の文化がいち早く入ってきた地である。孔子廟もあった。
 
 再び、東京に住むようになって50年となる私たちは、「くんち」も重陽の節句も祝うことはなくなった。
 
 今宵は、山口青邨の「菊」の作品をみてみよう。

■1句目

  菊咲けり陶淵明の菊咲けり  『雪國』
 (きくさけり とうえんめいの きくさけり) 

 句意はこうであろう。中国の陶淵明の詩が好きな青邨は、花や樹木を雑多に植えているので雑草園と名づけたという自宅の庭に、無論のこと菊も植えていた。その菊が咲いたのであった。
 
 この句は、陶淵明の詩「飲酒二十首、其五」の一節、「菊を採る東離の下」「悠然として南山を見る」を踏まえたもので、昭和10年に〈菊咲けり陶淵明の菊咲けり〉〈瓷にあふれ東離にあふれ菊咲けり〉〈日燦々東離山妻菊を摘む〉〈夕月や東離の菊に靄流れ〉〈菊畑に手鞠はひりぬ菊にほふ〉の5句を詠んだ。
 青邨は、陶淵明について後年「むかし私は陶淵明にかぶれ、これらの句などを詠んで喜んでいた。口さがない連中は私を陶淵明先生と揶揄した。」と回想している。
 
 『雑草園夜話上』に「陶淵明先生」という文章がある。青邨の74歳になる長兄の手紙には陶淵明のことが書かれていた。
 「暇があれば陶淵明詩集を読んでいる。書中、先師先訓がたくさんありますので、心楽しく、人生の険しさも自から薄らいで行きます、この長かりし一生の間にどうやら一巻の愛読書を見つけたことは遅まきながら自分にとって一大向上であり、又、大きな幸福でもあります。喜にたえません、それにつけても今日までの粗読乱読を今、改めて精算することの気楽さも少なくないと思います。」
 青邨も同じ気持ちであったと思われる。
 
 山口青邨の句は、私が、カルチャーセンターで深見けん二先生から俳句を学びはじめた最初の頃、プリントに書いて配られた俳人の1人であった。以来、様々の俳人の作品のプリントも戴いたが、高浜虚子と山口青邨の句が多かったように思う。

■2句目

  百菊の妍をきそひし月日あり  『繚乱』
 (ひゃくぎくの けんをきそいし つきひあり)

 句意はこうであろう。この作品は1句目の作品から40年近く経っている。雑草園には青邨の好きな菊の花が、あの菊この菊、あの色この色と増え続けて、今や百種類もの菊が植えられている。菊たちは、美女と同じで、互いに美しさを競い合っている盛りの時期があった。まさに「妍をきそひし月日」であった。
 
 やがて菊は年月が経つにつれて、枝が重くなるからなのか、疲れてきたからなのか、枯れ切った茎は地に横たわるように広がり、昭和62年作の〈菊も這ひ雑草園は野のごとく〉『日は永し』のように、菊畑というより雑草園にふさわしく伸び放題となっていたという。翌昭和63年に96歳で亡くなられた。秋には、天上も菊であふれているに違いない。
 
 『山口青邨季題別全句集』にある菊の作品は84句で、どの季題よりも多く詠まれたのが「菊」であった。