第六百六十六夜 深見けん二の「虫の世界」の句

    虫しぐれ        清少納言
 
【43】 蟲は すずむし。ひぐらし。てふ。松蟲。きりぎりす。はたおり。われから。ひをむし。螢。
 みのむし、いとあはれなり。鬼の生みたりければ、親に似てこれらおそろしき心あらんとて、親のあやしききぬひき着せ、「いま秋風吹かむをりぞ来んとする。まてよ」といひpきて、にげていにけるも知らず、風の音を聞き知りて、八月ばかりになれば、「ちちよ、ちちよ」とはかなげに鳴く、いみじうあはれなり。
         『日本古典文学体系19 枕草子 紫式部日記』岩波書店
 
 昨日のこと、昼のいつとき激しく降っていた雨は、夜の犬の散歩の頃には止んでいた。窓の外に凄まじいほどの虫の鳴き声がしていた。早く散歩に出ておいでよ、という虫たちのラブコールのようであったので、ノエルと虫の音のなかの散歩を、いつもより遠くまで歩いた。家並みを外れると、広々とした畑と広々とした夜空が見える道に出る。月や星のある夜にゆく散歩コースである。
 
 一日中でも机に座ってパソコンや読書はできるけれど、運動は苦手、どうやら体重がまた増えているようだ。
 夏の暑さを越えたので、外気に触れて、虫の鳴き声を聞きに行こう。
 
 今宵は、「虫」の作品をみてみよう。

■1句目

  窓開けて虫の世界に顔を出し  深見けん二  『余光』      
 (まどあけて むしのせかいに かおをだし) ふかみ・けんじ

 句意はこうであろうか。庭の虫の音が姦しいほどである。どれどれと窓を開けた深見けん二先生は、虫の世界に顔を出してしまった。生の虫たちの鳴く音色を直に確かめたかったのかもしれない。
 
 ところが、虫たちはおそらく鳴き止んでしまい、庭はしーんと静まり返った。
 虫の俳句を探しているとき、私は、蝸牛社刊の『秀句三五〇選 虫』の中に、安藤良一さんの〈鳴きやみて虫皆我を見てるらし〉という作品に出合った。
 秋の夜の犬の散歩で、こうした情景に出くわすことがある。近づくと虫の音はパタッと止むのだ。
 安藤良一さんも、虫の音が止んだ瞬間に物音ひとつない静寂を感じ、そして想像したのだろう。「虫がいっせいに、草むらの隙から息をひそめてわたしを、じっと見ているにちがいない」と。
 
 掲句の場合もまた、同じように虫の音がピタッと止んでしまったのではないだろうか。

  こほろぎのこの一徹の貌を見よ  山口青邨 『庭にて』
 (こおろぎの このいってつの かおをみよ) やまぐち・せいそん

 句意はこうであろうか。まあ、このこおろぎの、歌舞伎役者の隈取りのような貌を見てごらんなさい。思い込んだら命がけといった必死なものを感じる貌ではないか。

 「こほろぎ」の句といえば、真っ先に蟋蟀の顔とともに浮かんでくる作品である。
 自句自解『山口青邨句集』で、青邨は「真っ黒で、てかてか光った、絶壁のような頭、ガラスの目玉、鋸の歯の口、たくましく頑固な一途な風貌。こんな面魂はこれからの世の中には頼もしいものかも知れない。まあ、このこおろぎの風貌を見てごらんなさい--。私も頑固一徹なところがあるようだ、こおろぎの貌を見ていておかしくなった。」と、自解している。

 そして青邨も、かなりの一徹さを持ち、ホトトギスの中で、時には頑として自説を曲げないことから「青邨の鶏冠(とさか)」と言われることがあったという。

 昭和23年作太平洋戦争は終わったが、日本はこれから敗戦から立ち上がらなければならない大変な状態であった。この句には、「座右ボナールの友情論あり」という前書がある。こうした書をがつがつ読みたいほど飢えていたという。こおろぎは、青邨の書斎を訪れてくる大切な友であったのだ。