第六十八夜 加藤楸邨の「牡丹」の句

  火の奥に牡丹崩るるさまを見つ  『火の記憶』
 
 加藤楸邨(かとう・しゅうそん)は、明治38(1905)年―平成(1993)年、東京生まれ(出生届は山梨県)。昭和6年に村上鬼城に私淑、水原秋桜子に師事し、「馬酔木」に参加する。昭和14年、第一句集『寒雷』刊行。同年の「俳句研究」の座談会での発言から、石田波郷と中村草田男と篠原梵と加藤楸邨の四人は、山本健吉編集長より「人間探求派」と呼ばれた。昭和15年「寒雷」を創刊主宰する。
 
 楸邨のどの作品を、この日の一句にしようか迷ったが、掲句を紹介してみよう。〈隠岐や今木の芽をかこむ怒涛かな〉〈木の葉ふりやまずいそぐないそぐなよ〉などの代表作にも惹かれる作品はあったが、30年前には俳句初心であった私はこの句に強く惹かれながら、中七の措辞の「牡丹崩るる」を勘違いして鑑賞していた。
 
 もう一度、鑑賞してみようと思う。
 
 昭和20年作。第二次世界大戦の末期、楸邨の住んでいた東京に大空襲があったときに出逢った実際の光景であったのだ。石寒太著『加藤楸邨』には、次のように詳しく描写されている。
 「空襲の火の手は、みるみる目の前をひろがっていった。家も焼かれ、燃えさかる奥の庭には牡丹の大輪があって、その牡丹の花弁がめらめらと火の中に、無音でくずれながら散っていった。」
 さらに、「五月二十三日、深夜六編隊空襲。病臥中の弟を背負い、妻と共に一夜道子と明子を求めて火中彷徨」と、長い前書があったという。
 
 楸邨は、牡丹が好きで庭に丹精して育てていた。フランスからの客人イブ・ボンヌフォアが来る日には美しく咲いてほしいと願ったほど。だが、ボンヌフォアは俳句のような一行詩も作る詩人であるが、さほど牡丹に興味を抱かなかったようだった、というエピソードを読んだことがある。

 空襲の日、我が家が焼ける火の奥に崩れてゆくのは、楸邨の愛していた牡丹であった。家屋の焼失という茫然自失の極地の中で、その凄惨の極地の最中にいて、凄烈な美を見てとったのは、楸邨の俳人魂であった。
 私は、空襲の燃えさかる炎を「牡丹崩るるさま」と、見立てた作品であると思っていた。たとえそうであったとしても、楸邨は美を感受する凄い俳人であると思っていたのだが、これほど愛着のある牡丹が目の前で焼かれている様を詠んだ句だと知ったときには、ゾクッとした。
 
 自己の生活や生き方を誠実に追求し、〈鰯雲人に告ぐべきことならず〉などの内面凝視から内面的苦悩の濃い作品を詠んだことで、「人間探求派」と呼ばれた楸邨である。
 もう一つ、若き日に詠んだ同じ楸邨の作品かと思うほどの、最晩年の不思議な一句を紹介しよう。

  天の川わたるお多福豆一列  『怒涛』