第六百七十九夜 高浜虚子の「秋の風」の句

 今日は秋の彼岸の中日の秋分の日。昼夜が等分となる日で、これから次第に夜が長くなって冬至となる。

     石を積む        別所梅之助
     
 私どもが山へゆけば、案内者は道の心おぼえに、大きい石の上に小石を積む。これが賽の神に石を手向けた名残か、どうか知らねど、蔵王山の賽の河原の石積みは、正しく御仏に縁を結ばうとするのであらう。賽の河原といふ所は、蔵王のみか、箱根にもあり、浅間山にもある。日本は火山の多いからでもあらうが、私の狭い山の旅ですら、そこでも此処でも、賽の河原と名のつく焼石原を踏んだ。いや賽の河原、海べにもある。さういふ所では、大抵、石を積む。私など子どもの時、恐ろしいので嫌ひであつた地獄絵のからくりでも、「一つ積んでは父の為、二つ積んでは母の為」とか、子どもが石をつむ。無慈悲な鬼がそばからこはす、子どもが泣く。地蔵様が慰めて下さる。(『石を積む』警醒社より)

 今宵は、「秋の風」「秋風」の作品を紹介してみよう。

■秋の風
  
  暁烏文庫内灘秋の風  高浜虚子 『七百五十句』 昭和31年10月4日
 (あけがらす ぶんこうちなだ あきのかぜ) たかはま・きょし

 「暁烏文庫」とは、真宗大谷派の高僧の暁烏敏(あけがらす・はや)が没後に金沢大学へ蔵書を寄贈した際につけられたもの。「内灘」は、金沢近郊の海岸で、米軍の射撃場をめぐって基地闘争が繰り広げられた。
 「暁烏文庫」と「内灘」は、文庫と演習場という2つの正反対のものである。
 暁烏敏は、高浜虚子の俳句の弟子でもあり「非無」と号した。
 
 句意はこうであろうか。昭和31年10月4日、虚子は金沢に行き、五女の高木晴子を訪れ、松風閣で句会をし、金沢平野の北部の「河北潟」へ立寄った。金沢大学に収められた暁烏文庫を見たのは、前日の10月3日であった。そして4日のこの日、内灘の地の心のひきしまるような秋風の中でこの句を詠んだのであった。
 
 この句は、「花鳥来」の虚子研究の『五百句』に続いた『七百五十句』の輪講で取り上げたものであった。暁烏敏という人物と内灘の地名が印象的であった。その後、宮沢賢治を調べていた折に、暁烏敏が信者である宮沢賢治の父を訪門したという箇所を読んだことがあった。この頃の賢治は法華経の信者であったが。
 暁烏敏は全国の信者の家を行脚して回っていたのだ。
 
■秋風

  秋風に詣る句の弟子酒の弟子  川畑火川
 (あきかぜに まいるくのでし さけのでし) かわばた・かせん

 句意はこうであろう。秋風の心地よい日和に、川畑火川は師の石田波郷の墓所のある深大寺へ詣った。句の弟子であったことは勿論であるが、会えば必ず酒を酌み交わす弟子でもありましたよ、となろうか。

 川畑火川は、石田波郷門で石田波郷の主治医でもあった。石田波郷の第1句集『鶴の眼』に〈われら一夜大いに飲めば寒明けぬ〉という作品があるように、俳人たちは酒好きで議論好きであった。
 
 深大寺には茶店が並んでいたが、お酒も売られていた。冬に父と行ったとき、波郷が好きで酒好きの父は、焚火の輪に入って、温め酒を飲んでいたことを思い出す。