第六百八十一夜 角川源義の「秋の海」の句

    捕まえられそうだった夢    フィッツジェラルド
    
 その昔の未知の世界のことを考え込んでいた時に、ふとわたしは、デイジーも家の桟橋の先端の緑色の燈火を初めて見つけ出した時の、ギャッツビーの驚嘆ぶりを想い起こした。彼は長い道のりをへてこの青い芝生に辿り着いたわけであり、彼はもうすこしでつかまえられそうなほど自分の夢に近づいたような気がしたにちがいない。ところがその夢は、もうすでに彼の背後に、市のかなたの夜の中にこの共和国の黒っぽい畑がひろがっている、あの広大なうすぼっみゃりしたあたりに、逃げ去っていることには、彼は気がついてもいなかったわけだ。
 ギャッツビーは緑色の燈火の存在を、来る年も来る年もあれわれの前から後退してゆく乱痴気騒ぎ的な未来なるものの存在を、信じ込んでいた。緑色の燈火はあの時にはわたしたちの手から逃げ去りはしたが、そんなことはどうでもいいではないか――あすはわたしたちはもっと速く走り、もっと遠くまで腕をのばすことだろう・・そしてある晴れた朝には――
 したがってわたしたちは、潮の流れにさからい、絶え間なく過去に押し戻されながらも、じぐざぐに船を進めつづける。
      (『華麗なるギャッツビー』橋本福夫訳 早川書房)

 映画は、1974年版の主役はロバート・レッドフォード、2013年版ではレオナルド・デカプリオであった。私は大学時代に夢中になった『グレート・ギャッツビー』が映画になると知って、大学時代の仲良しと銀座の映画館へ観に行った。主役はロバート・レッドフォードの方である。

 今宵は、「秋の川」「秋の海」の俳句を紹介する。今回の俳句作品との関わりは見つからなかったのだったが、この映画はニューヨークを流れるハドソン川の高級住宅街が舞台である。

■1句目 秋の海(秋の波は秋の海の傍題) 
  
  勿来すぎ身ほとり秋の濤の声  角川源義 『現代俳句歳時記』角川春樹編
 (なこそすぎ みほとりあきの なみのこえ) かどかわ・げんよし

 句意はこうであろう。茨城県から福島県の海岸線に沿って北上してゆくと勿来である。太平洋の波音をずっと聞きながら車で走りましたよ、となろうか。

 もう20年ほど前であるが、私は、東京から太平洋岸沿いを北上して五浦(いずら)を越えて、ここが勿来の関公園の入口ので折り返して、五浦、の茨城県天心記念五浦美術館と六角堂で、太平洋の波音を聞いて過ごした。

■2句目 秋の海

  胸中に引く波ばかり秋の海  手塚美佐 『現代歳時記』成星出版
 (きょうちゅうに ひくなみばかり あきのうみ) てづか・みさ

 上五中七の「胸中に引く波ばかり」は、ちょっとしたことで考え込んでしまって、心が前向きになれなくて後ろ向きになることがある。秋の海は、秋の空の青さを映して、静けさも寂しさもある。
 
 秋の海を見たい時というのは、自分の心の寂しさを知り、その寂しさを紛らせたいからかもしれない。寄せる波ではなく引く波なのであろう。

■3句目 秋の川

  見るかぎり同じ速さの秋の川  山口誓子 『現代俳句歳時記』角川春樹編
 (みるかぎり おなじはやさの あきのかわ) やまぐち・せいし

 冒頭の『グレート・ギャッツビー』の中で、高級住宅地に住んでいるかつての恋人デイジーとその姿を追い求めるように眺めているギャッツビーの間にはハドソン川の流れがあった。大河の流れは穏やかで、きっと「見るかぎり同じ速さの」流れであったろう。
 
 掲句の、秋の川の「見るかぎり同じ速さの」とは、水が澄んでいて、爽やかな秋の高い空の色の映っている、かなりの大河であろうと想像しているが、利根川の下流の広い河口あたりの、深々と流れる水量に「同じ速さ」で進んでゆく姿を見たことがあった。
 
 しかし、台風が過ぎた直後の土手に上ってみると、広い川幅の真ん中を、もの凄い速さで材木が流れていたのだった。