第六百九十夜 中田剛の「さくら咲く」の句

 10月4日、このところ目の疲れからか、眼球が痛い。足や肩の疲れや痛みをほぐすように目頭を軽く押さえて市販の疲れ目用の目薬を点していた。だが効果はない。痛い所はおでこの真ん中あたりだ。
 毎日、痛みをこぼしていたが、夫はいつものごとく無口のまま。
 
 娘が、眼科に行きなさい、と珍しく強く言った。勤務する出版社で、娘は医療関係のことに携わっているので、何かと心強い。
 医者嫌いの私は、娘の言葉に従って医者に行ったのは2度目。1回目は大腿骨骨折の時。この時も私は1週間痛みを我慢をしていたが、娘に強引に守谷第一病院へ連れていかれ、2ヶ月の入院となった。
 運動嫌いは変わらずで、退院してからのリハビリをさぼっているので現在も杖の身。
 
 予約をせずに行った眼科は、まあ、混んでいた。目の悪い人ってこんなにも多いのかと驚きつつ、待合室の人たちを眺めながら3時間ほどは待ったろうか。お互いにコロナ禍のマスクマン姿であり、もしかしたら「あの人かしら?」と思いながらちらちら見ていると、その方の方から声をかけてきた。「やっぱり荒木さんだったのね?」
 
 様々な検査器の前に座った。1つ驚いたのは、ピュッと本物の風が吹いた時だ。強い風にどう反応できるかの検査であろう。
 特別な病気ということではなく疲れ目という診断であったが、検査をし、素敵な女医さんとお話をして、爽やかな気分で帰宅した。
 
 今宵は、季語ではなく、「眼」「目」「瞳」の作品を紹介してみよう。

■1句目:瞳孔

  瞳孔をのぞく瞳孔さくら咲く  中田 剛 『珠樹』
 (どうこうを のぞくどうこう さくらさく) なかた・ごう 

 瞳孔とは、通常「黒目」と呼ばれている部分のこと。
 恋人同士または女友達同士でも、こうした場面はあるかもしれない。目を見つめたとき、相手の黒い瞳孔にさくらが映っていることに気づいた。下五の「さくら咲く」としたことで、長いこと見つめ合っていることが伝わってくる。それにしても「さくら咲く」という花の開いてゆく動きという時の長さを、果たして捉えることは出来るのだろうかと思った。
 やはり、恋人同士であろう。【さくら・春】
 
 中田剛(昭和32年-)は、千葉県生まれ。15歳で大須賀乙字門。昭和59年、宇佐美魚目、大峯あきら、岡井省二らの個人誌「晨」に参加。平成5年、長谷川櫂の「古志」創刊に参加、平成12年、個人誌「箱庭」を創刊。

■2句目:眼底

  眼底に冬椿燃え傷疼く  柴田白葉女 『遠い橋』
 (がんていに ふゆつばきもえ きずうずく) しばた・はくようじょ 

 眼底とは、物を見たときの映像が映る視神経のあるところ。柴田白葉女は、燃えるように咲いている冬椿の映像が、今、まさに眼底に届き、冬椿の燃える色が、かつて傷ついたことのある眼底の傷を疼かせているように、感じたのであろう。
 
 白葉女のとっての傷とは何であるのか、かつて囚人の収容所に俳句の指導に訪れていたことがあったが、もしかしたら、自分の傷というのではなく、収監されている人の痛みを感じたものかもしれない。

 「眼底」のことを調べていたら、受診した「たかはし眼科」の女医さんが、さまざまの検査をし、さまざまの映像を見せてくれた中に、眼球も眼底の映像もあった。「大丈夫ですよ、眼底に傷はありません。」と仰ってくれた。【冬椿・冬】

■3句目:虹彩

  杉山に朝虹彩を重ねたり  右城暮石 『一芸』
 (すぎやまにあさ こうさいを かさねたり) うしろ・ぼせき

 虹彩(こうさい)とは、眼球の色がついている部分のこと。その真ん中にある、「黒目」と呼ばれている部分が瞳孔で、瞳孔が大きくなったり小さくなったりしているように見えるが、実際には虹彩が伸び縮みをして、光の量を調整している。カメラに例えると、虹彩は絞りに相当するのだという。【杉山・秋】

 昨日、眼科へ行ったことから「目」の俳句を集めてみたが、昔から両目ともに1・5という元気な視力の持ち主なので、細部になると実感の伴う鑑賞が出来ていないかもしれない。だが私も後期高齢者。我が身の身体の細部に気を使い、人様の身体を詠んだ俳句も鑑賞できたら素敵だと考えている。