第七十夜 前田普羅の「霜」の句

  霜つよし蓮華とひらく八ヶ岳  前田普羅 『定本普羅句集』
 
 この句は、「甲斐の山々」として昭和十一年、東京日日新聞に発表の〈茅枯れてみづがき山は蒼天(そら)に入る〉〈駒ケ岳凍てて巌を落としけり〉〈茅ケ岳霜どけ径を糸のごと〉〈奥白根かの世の雪をかがやかす〉の、普羅の代表作といわれる五句中の三句目に置かれた作品。
 『前田普羅―生涯と俳句』の著者である俳人中西舖土によれば、普羅が青年時代から心を寄せていた山々で、五句を発表するまで二十年もの月日を要したという。
 筆者の私も、学生時代には霧ヶ峰のスキー場へよく行き、後には、仕事に倦むと、一日コースのドライブとなった美しい八ヶ岳地方である。
 
 鑑賞は次のようであろう。
 
 「八ヶ岳」は特定の一峰を指す呼び名ではなく、山梨・長野両県に跨る山々の総称で、南八ヶ岳の山々と北八ヶ岳の山々がある。この句は、清里の方から眺めた景だという。八ヶ岳の名のごとく八つの山々が雪を被って、それが、蓮華が咲いて白い花びらが並んでいるように見えると詠んだのだろう。上五の「霜つよし」から、作者の立つ山麓が一面に霜枯れの蕭条としたもの寂しい景であったことが見て取れる。
 「蓮華」は「蓮華草=レンゲ」ではなく、華厳経など仏教での「蓮華=蓮の花」であろう。太古へとつづく万年雪を被っている八ヶ岳だからこその「蓮華とひらく」である。五句目の「かの世」は死後の世界のことであるが、未来永劫のことである。
 普羅が「甲斐の山々」の作品が生まれるまでの二十年の月日というのは、普羅が年を重ねてきたことによって甲斐の山々を掴み詠むことができた、とも言えるのではないだろうか。
 
 前田普羅(まえだ・ふら)は、明治17(1884)―昭和29(1954)年、横浜市生まれ。大正元年にホトトギスに投句、高浜虚子に師事。虚子の『進むべき俳句の道』で「大正二年の俳句界に二の新人を得たり。曰く普羅、曰く石鼎(原石鼎のこと)」と推奨。横浜裁判所勤務、後に新聞記者となり富山支局へ赴任、退職後も富山在住で「辛夷」の選者、後に「辛夷」主宰となる。
 
 もう一句、若い頃の作品を紹介しよう。
 
  人殺す我かもしらず飛ぶ螢  『普羅句集』
 
 虚子は「進むべき俳句の道」の中で、「普羅の好句として推奨することはできないが、而も或る特異なるものとして之を見捨てるわけにも亦いかない。」と書いている。
 岡田日郎は、著書の蝸牛俳句文庫『前田普羅』の中で、「横浜裁判所勤務の時代、さまざまな判例に接した。貧しさから殺人を冒した判例などを見るにつけ、わが若き日の激情をふりかえることによって、生まれた作と、講話記がある。」「激情の沈潜から詩は生まれる。」と書いている。