第七十一夜 長谷川素逝の「雪」の句

  馬ゆかず雪はおもてをたたくなり  長谷川素逝 『砲兵』
 
 長谷川素逝(はせがわ・そせい)は、明治四十(1907)―昭和二十一(1946)年、大阪府生まれ。「京鹿の子」の鈴鹿野風呂、「ホトトギス」の高浜虚子に師事。昭和8年に「阿漕」を創刊主宰。昭和12年に砲兵少尉として応召。昭和14年に第一句集『砲車』を刊行。四十歳で死去。
 
 掲句を鑑賞をしてみよう。
 
 「ホトトギス」の掲載は昭和十三年六月号、巻頭作品四句の一作目。昭和十二年に勃発した日支事変(日中戦争とも)に、砲兵少尉として従軍した「北支陣中」からの投句である。
 大砲を戦場へと運ぶ騎馬行軍はさらに前進しなければならない。軍人たちは勿論のこと、軍人を乗せ、大砲という荷をかつぐ馬の重労働はいかばかりであったろう。「馬ゆかず」と否定的な表現の強さによって、疲れ切って頑として動こうとしない馬が見え、さらに「おもてをたたくなり」の強い表現から馬の顔にたたきつけるように降る雪の激しさが見えてくる。動こうとしない馬を、なんとかして歩かせ、戦地まで大砲をはこぶことが素逝の使命だ。
 なんという平明な言葉で、素逝は、戦地の一齣を切り取ったのだろう。馬の「あわれ」は、即ち戦争の「あわれ」である。
 
 素逝は、戦地から〈傷つきしものを酷熱の地(つち)におく〉〈脚切つたんだとあふむいて毛布へこめり〉〈ゆふやけのさめつゝ思ひはろかなる〉などの作品を寄せて六回ホトトギスで巻頭となった。素逝の戦争俳句は、怒りというものが気迫の籠もった淋しさへ昇華しているのを感じさせ、ホトトギスの読者だけではなく俳句界全体を賑わした。後に、これらの作品は句集『砲車』に纏められた。
 
 昭和十二年の日支事変以後は、戦争俳句が盛んに詠まれるようになった。この頃の俳壇というのは、反ホトトギス・反伝統の旗をかかげて共に俳句革新運動を進めてきた水原秋桜子も山口誓子も、無季・超季へ向かうことはなかった。新興俳句運動は、秋桜子や誓子など有季定型派と、西東三鬼や無季容認派に別れていた。この戦争の題材は、無季俳句にぴったりであるとして好んで詠まれるようになり、渡辺白泉の作品〈戦争が廊下の奥に立っていた〉などは戦火想望俳句とも呼ばれた。
 それに対して虚子は、新興俳句の最前線である「京大俳句」にも一時属していた「ホトトギス」の作家、長谷川素逝の句集『砲車』こそ真実の力強さがある戦争俳句である、と序文を寄せている。
 
 戦地で肺を患い、素逝が亡くなった翌昭和二十二年に、句集『定本素逝集』が刊行されるが、そこには戦争俳句は一句も入集されていなかった。素逝は、生前に自選する際に全て捨てていたのだという。
 『定本素逝集』より、一句を紹介しよう。
 
  咲きみちしおもたさにある花の揺れ  『定本素逝集』