第六百九十四夜 石寒太の「桃ひらく」の句

 今日もまだ目が痛い。これぐらい目を使っていたって何ともなかったのに。どうした、あらきみほよ! ブログ「千夜千句」の、もうじき七百夜目となるのに、その前に魔が出てきて、どうやら私は試されているようだ。
 
 「千日行」は命がけだと、夫は言う。随分前から、居間の壁に「千日回峰行」と書いて貼ってある。夫は、何も行らしきものをしているようには見えないが・・。さらに夫は言った。「この千日回峰行を始めたからには、途中で止めるのは死を覚悟するということだ。」と。「誰も、短刀を胸に回峰行に出たのだ。」と。
 毎日見ている「千日回峰行」の文字の「千日」に引き寄せられるように、私は「千夜千句」を始めたのかもしれない。
 
 2018年の秋、私は玄関先で転倒して、大腿骨頸部骨折となり入院をし手術をした。俳句を詠む私は、車で出かけては歩き回っていた。杖の身となり、動きは格段に鈍くなった。その後にスタートしたのがブログ「千夜千句」で、多くの俳人の名句に触れることは、知らなかった世界までも連れて行ってくれる。
 無事に千日行を終えることができたら、私は、77歳の喜寿を迎える。
 
 今宵は、「瞳」を詠み込んだ作品をネットで見つけた。いくつか紹介しよう。

■1句目

  背の子の瞳に伊那谿の桃ひらく  石寒太
 (せなのこの めにいなだにの ももひらく) いし・かんた

 昭和64(平成元)年、「言葉にも心にも片寄らず、炎のような情熱と人の環を大切にする」をモットーに「炎環」を創刊、主宰。 出版社蝸牛社を立ち上げるころ、荒木は寒太さんから俳句出版の指南を受け、寒太さんが俳句結社「炎環」を立ち上げて、1つの俳句会を石神井公園で持つことになったとき、荒木と私は句会に参加し、会場係を務めていた。
 石神井句会は、二次会は石神井公園の茶店であった。お酒もだが、袋回しという句会も愉しんだ。季語が書かれた紙が入っている袋を回し、1人づつ袋から紙を掴み、紙に書かれた季語で即吟をしなくてはならない。
 
 案外に良い作品が生まれることがある。俳句に夢中で集中した瞬間だからであろう。
 
 そうした、懐かしい時代があった。今年の春、新聞で寒太さんの〈土佐みづきひとりの刻をひとりをり〉という句を見つけた。その後、寒太さんのご病気の記事を新聞で見つけた荒木は、「寒太さん、病気のようだけど大丈夫かなあ・・」と、呟いていた。しばらくして快方に向かわれたニュースを見て、安心したが、78歳で、夫の荒木と同い年である。

 掲句は、伊那谿の桃畑であろう。まだ子どもが幼いころに家族旅行で出かけた。子どもの足ではすぐに草臥れてしまうのか、ついにおぶった。背負われた子は、桃の花と同じ高さになり、子の瞳に桃の花が開いていく様子が映ったのである。
 
 寒太さんの代表句に〈かろき子は月にあづけむ肩車〉『あるき神』がある。おぶったり肩車をしてあげた、やさしいお父さんだったことが想像できる。

■2句目

  疲れた農夫秋の深さの瞳で語る  穴井太
 (つかれたのうふ あきのふかさの めでかたる) あない・ふとし

 句意はこうであろう。農夫は冬が来るまでに秋の収穫をすべて終え、再び畑を耕し、春に芽吹く種まきも済ませて置かなくてはならない。朝早くから夕暮れまでどれほど働き詰めるので、農夫は疲れ切っているが、全てをやりきった瞳は、まさに「秋の深さの瞳」であった。「語る」とは、畑で1日中をともにした妻に向かって「今日も終わったな。」と、素っ気ない言葉のようでも、そこには、夫の「秋の深さの瞳」があったのだ。