第六百九十五夜 芥川龍之介の「水洟」の句

 鼻の俳句を考えてみたいと思ったのは、美しい光景ではなく、私を取り巻く俳句環境が変わろうとしていることに加えて、残暑の疲れ、目の疲れなどが押し寄せた中で、じつは、鼻血を出してしまったからである。
 
 鼻血などは何時以来だろう。息子が3歳くらいの時だった。喧嘩したのか転んだのか、慌てて玄関に飛び込んできた。鏡の前で外出の支度をしている私に近づいた時、息子は鏡に映った鼻血を見て、泣き声を張り上げた。「真っ赤」なものが鼻から流れているというのは、驚きを超えて恐怖に近かったのであろう。その頃は、子育ての本も子どもの病気の対処法の本も揃えてあったので、止血も無事にやってのけた。
 
 ところが、75歳を超えた今、突然の鼻血に私はうろたえた。この日も夫は、鼻血ごときで騒ぐでない、といった顔で野球中継に集中したまま・・。私は、ティッシュで鼻を押さえた。次に、氷を出して首を冷やし、ベッドに横たわった。しばらくすると収まったので、ネットで調べてみた。
 私は、いくつ鼻血対処法を間違えたのであろうか。
 じつは、すべて間違っていた。
 ① まず、鼻のつまめる辺りをギュッとつまむ。
 ② 首筋を冷やしてはいけない。
 ③ 横たわってはいけない。
 これだけ守れば、10分もすれば止血は完了するという。

 今宵は、芥川龍之介の「水洟」の作品を紹介してみよう。

■鼻の先

  水涕や鼻の先だけ暮れ残る  芥川龍之介 『澄江堂句集』
 (みずばなや はなのさきだけ くれのこる) あくたがわ・りゅうのすけ
 
 龍之介が生前に得た俳句の数は約六百句に余るyという。だが彼がみずから『澄江堂句集』として残した句は77句にすぎない。精選された珠玉の小句集である点で、『芝不器男句集』とともに双璧である。彼の清潔な行き届いた神経を見ることができる。
 生前に龍之介が77句準備していて、没後に香典返しとして配られたのが『澄江堂句集』。その中の17句目に掲句〈水涕や鼻の先だけ暮れ残る〉がある。ほぼ年代順の並べ方と言われているので、実際には、自害した時に詠まれた辞世の句ではない。
 
 句意は、山本健吉著『現代俳句』(角川文庫)から、そのまま転載させていただこうと思った。何度も読み返してみたが、1部を切り取ることはできない。

 この句を辞世の句とみなす論者もある。得意の句でたびたび染筆しているという。7月24日の午前1時か2時ごろ、彼は伯母の枕元へ来て、1枚の短冊を渡して言った。「伯母さん、これをあしたの朝下島さんに渡してください。先生が来た時、僕がまだ寝ているかもしれないが、寝ていたら僕を起こさずにおいて、そのまままだねているからち言ってわたしてください」これが彼の最後となった。「下島さん」とは主治医の下島勲であり、乞食井上井月(※俳人いのうえ・せいげつ)を世に紹介した人である。この後、彼はヴェロナールおよびジャールの致死量を仰いで寝たのである。短冊には「自嘲」と前書してこの句が置かれてあった。
 
 この句の作られた正確な日取りがわからないが、堀辰雄の示教によれば大正8・9年ごろの作であるらしく、死の前になってこの句を思いだすことが多く、たびたび短冊などに書いたものという。「水洟」は「風邪」「咳」「嚔(くさめ)」などとともに冬の季題として立てられていたのである。「暮遅し」「暮かぬる」は「永日」「遅日」の傍題とされているが、「暮れのこる」という名目はないようである。
 
 『鼻』の作者に鼻の句があるのは当然のことであろう。狂死した『鼻』の作者ゴーゴリは彼の愛読する作家の1人であった。もちろん彼の鼻は禅智内供(ぜんち・ないぐ)のような畸形的な鼻ではないが、いかに立派な鼻でも、眼の前に隆起した部分として意識し出すと気になるのだ。ことに冬の鼻は凍てを意識することが多いのである。後に「僕も亦人間獣の1匹である」(或旧友へ送る手記)と言った彼は、顔の中の鼻の部分に動物的なものの名残を意識することがたびたびあったかもしれぬ。しかも次第に「動物力を失っている」(同)自分を意識した彼にとって、鼻はただ1つ取り残されたものという感じがつきまとっていたかもしれぬ。鼻1つ「暮れ残」っているという気持ちである。水洟を点じた鼻の先だけが光って暮れ残っているという意識は、だからまさに「自嘲」そのものである。鼻だけが動物のごとく生きて水洟を垂らしているという不気味な自画像を描き出したのである。
 
 鼻に托して、冷静に自己を客観し、劇画化した句であり、恐ろしい句である。彼の生涯の句の絶唱と言うべきであろう。