第六百九十九夜 正岡子規の「柿二つ」の句

 今日と明日の2日続けて、正岡子規のことを書いてみようと思う。子規の生誕は、翌年が明治元年となる1867(慶応3)年、時代の変革の真っ只中の、愛媛県松山市に生まれた。本名は常規(つねのり)、幼名は処之助また升(のぼる)で「のぼさん」と呼ばれる。
 明治5年、子規が5歳で、松山藩士であった父常尚(つねひさ)が40歳で死去、幼い子規が正岡家の家督を継いだ。母八重の大原家と伯父の加藤拓川が後見人となった。
 
 子ども時代のことは、河東碧梧桐著『子規言行録』に収められた追憶では、子規の母八重は「小さい時分にはよつぽどへぼでへぼで弱味噌でございました。松山で初めてお能がございました時に、お能の鼓や太鼓の音におぢておぢてとうとう帰りましたら、大原の祖父に、武士の家に生まれてお能の拍子位におぢるとそれは叱られました」と伝えている。また妹の律は、次のように語るのだ。
 「兄は泣虫で、よく夜泣おしました。(中略)泣虫であった兄は、また弱虫で、あの時分の遊び、凧をあげた事もなし、独楽を廻すでもなければ、縄跳び、鬼ごっこなどは、まして仲間にはいったこともありますまい。どうかして表へ出ると、泣かされて帰る、と言った風でした。」
 
 子規が泣虫であることは、寝たきりになった晩年にも泣く場面はあった。大方は痛くて痛くて泣き、泣くことによって痛みを欺いていたのであった。
 
 今宵は、越智二良著『子規歳時』より正岡子規の秋の句を見てゆこう。

■1句目

  三千の俳句を閲し柿二つ  明治30年10月12日
 (さんぜんの はいくをけみし かきふたつ)

 句意はこうであろう。「日本新聞」俳句欄の選者である子規は、新聞社から届けられた3000もの句稿を、果物が好きな子規は、秋には2つ分の柿を剥いてもらった皿を横に置いて、毎回、丁寧に調べて選をしていましたよ、となろうか。

 「閲す」とは、よく調べるという意味であるが、ここでは、投句された句を精査して選をすることであろう。明治25年、東大を中途退学した子規が入社したのは、陸羯南(くがかつなん)の経営する日本新聞社であり、子規は「日本新聞」の俳句欄の選者であった。
 明治30年は、子規はほぼ寝たきりの日々を送っていた時代であるが、陸羯南は、明治25年、隣りに移り住むようになった正岡子規を支援し、紙面を提供し、生活の面倒を最期まで見た。子規にとって「生涯の恩人」であった。

■2句目
 
  十一人一人になりて秋の暮  明治28年10月17日
 (じゅういちにん ひとりになりて あきのくれ)

 句意は、10月17日の夕べの三津の港には、見送りの人たちを含めて11人いたが、やがて、出港の時間になると、子規が1人だけとなってしまいましたよ、となろうか。

 明治28年10月17日、子規は松山を発って三津に至り、18日は見送りの人々と名残を惜しみ、19日三津発の汽船で広島に向かった。これが子規の故郷の見納めであった。
 
 10月27日、帰京する前に立ち寄った奈良では、子規は、あの有名な〈柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺〉を詠んだ。