第六百九十八夜 杉田久女の「菊枕」の句

   木犀の香         薄田泣菫

 晦堂は客の言が耳に入らなかつたもののやうに何とも答えなかつた。寺の境内はひつそりとしてゐて、あたりの木立を透してそよそよと吹き入る秋風の動きにつれて、冷々とした物の匂が、あけ放つた室々を腹這ふやうに流れて行つた。
 晦堂は静かに口を開いた。
 「木犀の香をお聴きかの。」
 山谷は答へた。
 「はい、聴いております。」
 「すれば、それがその――」晦堂の口もとに微笑の影がちよつと動いた。「吾無隠乎爾といふものじやて。」
 山谷はそれを聞いて、老師が即答のあざやかさに心から感嘆したといふことだ。(『薄田泣菫全集第五巻』創元社より)
 
 ※「吾無隠乎爾」とは、「われはかくすなきのみ」と読み、「要らんことを言わんてもええ。黙っとけ!」というお叱りの言葉であるという。
 
 今宵は、「菊枕」の作品を紹介しよう。

■1句目

  白妙の菊の枕を縫ひ上げし  杉田久女 『杉田久女句集』
 (しろたえの きくのまくらを ぬいあげし) すぎた・ひさじょ

 大正2年、虚子は、男性ばかりでなく長谷川かな女に声をかけて、「婦人十句集」「婦人俳句会」という過程を踏まえて、婦人だけの「台所雑詠」欄を「ホトトギス」誌上に新設した。そこに登場したのが、長谷川かな女、阿部みどり女、杉田久女、竹下しづの女、本田あふひ等の活躍によって、第1次女性俳句の時代を迎えた。
 
 〈足袋つぐやノラともならず教師妻〉は、大正11年に「ホトトギス」に発表されて評判になり、久女が俳人としての名を一気に上げた作品である。
 昭和7年、久女は俳誌「花衣」を創刊した。創刊の辞には、次のように述べている。
 「躓き倒れ、傷つきつつも、絶望の底から立ち上がり、自然と俳句とを唯一の慰めとして、再び闘い進む孤独の私であった。ダイヤも地位も背景も私にはなかった。」
 テンション高く、久女の俳句一筋の姿である。次の作品は、同年の代表作である。
  白妙の菊の枕をぬひ上げし  昭和7年
  ぬかづけばわれも善女や仏生会  昭和7年
  風に落つ楊貴妃桜房のまゝ 昭和7年

 掲句はこうであろうか。虚子先生のために白い菊の花びらを摘み集め、陰干しをして、菊の枕をぬいあげました、となろう。

 「菊枕」とは、陰干しにした菊の花を詰めた枕のこと。頭痛を治し、目をはっきりさせるという中国の伝説にちなんで愛用された。現代でも老寿の人に贈ったりするという。菊は邪気を払うということから、頭をのせる枕に入れて用いた。9月9日の重陽の日に摘むのが良いとされる。
 
 この菊枕と掲句に、虚子は〈明日よりは病忘れて菊枕〉の短冊を贈って返礼している。

 昭和7年、久女は俳誌「花衣」を発刊したが、5巻で廃刊となった。さらに、 昭和11年10月号「ホトトギス」の社告「同人変更」では、日野草城、吉岡禅寺洞、杉田久女の名が「削除」という強い言葉であった。
 ホトトギスで巻頭も得た久女が狂わんばかりに願っていたことは、序という虚子のお墨付きの句集であった。だがその時点では、虚子は「序」を書かなかった。久女は昭和21年に亡くなり、生前に句集を作ることは叶わなかった。

 「必ず句集お作っておくれ」と、母久女から、最後に会ったときに言われた石昌子氏の熱い思いはようやく叶った。虚子の追悼句と序文をいただいた句集『杉田久女句集』が、久女の没後6年目の昭和27年10月20日に角川書店より刊行されたのだ。

 虚子は、句集『杉田久女句集』の序に次のように書いている。
 
 「喜んでその需めに応ずべきであつたが、其の時分の久女さんの行動にやゝ不可解なものがあり、私はたやすくそれに応じなかつた。此の事は久女さんの心を焦立たせてその精神分裂の度を早めたかと思はれる節も無いではなかつたが、併しながら、私は其の需めに応ずることをしなかつた。」

 久女が指導し、俳句の道をつけた中村汀女も橋本多佳子も「ホトトギス」で活躍している。
 昭和9年の日付の手紙の、久女の焦りと矜持と謙りと恨みが綯い交ぜになった纏いつく文章は、確かに、師に対する手紙として異常である。
 久女の手紙には、次のくだりがあった。
 「先生は老獪な王様ではありませうが、芸術の神ではありませぬ。」と。
 痛快なほどの久女の文章ではあるが、「老獪な王様」とは、ある意味では巨大なホトトギス帝国を束ねてゆく虚子の一面である。

 師と弟子とのあり方を考えされられるのが、虚子と久女であった。