第七十二夜 橋本多佳子の「寒月」の句

  寒月に焚火ひとひらづつのぼる  橋本多佳子 『紅絲』
 
 掲句を鑑賞してみよう。
 
 季語は「寒月」「焚火」と冬だが、「焚火」を詠んだ作品であろう。焚火はよく燃えてくると赤い炎となり、その炎はひとひらづつひとひらづづ、上へ上へと燃え盛り、まるで寒月のかがやく天空へ上っていくかのような錯覚を覚える。「七曜」を継承した四女の美代子氏にの「鶏をしめた夜の焚火。〈ひとひらづづ〉には多佳子の祈りがある」という注があるが、「ひとひら」と表現された焚火の炎は、花びらか羽毛のようだ。
 
 橋本多佳子(はしもと・たかこ)は、明治三十八(1898)年―昭和三十八(1963)年、東京本郷の生まれ。

 俳句のきっかけは、大正十四年に福岡県小倉の自邸櫓山荘で開かれた高浜虚子一行の歓迎俳句会でのことである。句を作っている最中に、暖炉の上に活けてあった椿が一輪落ちたとき、多佳子は何気なくそれを火にくべた。燃える火の上に落ちた椿の赤が印象的で、それを見た虚子はすかさず〈落椿投げて暖炉の火の中に〉と詠んだ。椿のうつくしくはかない命を詠んだ虚子の句に惹かれた多佳子は、小倉住在の「ホトトギス」の俳人・杉田久女に俳句の手ほどきを受けることになり、多佳子も「ホトトギス」に投句するようになった。
 
 夫・建築家橋本豊次郎の仕事で大阪に転居した後は、大阪に住む「ホトトギス」の山口誓子に師事するようになる。昭和十年に誓子が「ホトトギス」を離れ、新興俳句運動の最前線となっていた水原秋桜子の「馬酔木」に参加したときも、誓子が「天狼」を創刊したときも、多佳子は誓子と行動を共にした。
 誓子の元で切磋琢磨した多佳子は、十七文字という短さの中での、緊密な構成力を学んだのではないだろうか。
 やがて多佳子は、昭和を代表する女流俳人として、星野立子、中村汀女、三橋鷹女と共に「四T」の一人となってゆく。
 
 もう一句、紹介しよう。
 
  雪の日の浴身一指一趾(いっし)愛(かな)し  『命終』
 
 大正六年、十九歳で結婚した多佳子は、昭和十二年、三十九歳のときに夫・豊次郎と死別する。代表作に〈月光にいのち死にゆくひとと寝る〉〈罌粟ひらく髪の先まで寂しきとき〉など、夫の死、夫を偲ぶ句、ナルシズムのごとく黒髪や趾を詠んだ作品が多くある、多佳子俳句の特徴とは、激しい女の情と言えようか。
 掲句は、昭和三十八年作。最後の入院の前日に自宅で詠んだ句。湯につかり、手の指、足の趾を一つ一つ丁寧に洗っている。「愛し」は「かなし」と読み、「悲し」「哀し」と同じ意味である。命の糸が長くはないことを知った多佳子の、自己愛惜の作品であろう。