第七百五夜 井沢正江の「草の絮」の句

   大切な人の死                  萩原葉子
 
 いつか私も年齢を重ねてゆくうちに、大切な人の死に屡々出遭い、その度に谷間に落ち込むような寂しさを味わう。一人の人間が、生きていたということは重大なことだと、ようやく分かるようになった。その人のもっているものは、良いも悪いも、その人だけのものであり、他の誰にもかけがえは望めないからである。
 この間会った時には何気なく別れてしまったが、あれが見納めになってしまったのかと、唖然とすることもある。仲の良い友だちと駅で別れる時など、姿が見えなくなるまで見送るのが、くせになってしまったが、ふとこれが最後になるのではないかなどと、思っていることがあり、あわててそんな自分の思いを打ち消すのである。大事に思う人ほどそういう思いが深い。(『うぬぼれ鏡』大和書房)
 
 今宵は、「草の絮」「草の穂」「穂草」の作品を見てみよう。
 
■1句目・草の絮

  つばさあるものより高く草の絮  井沢正江 『蝸牛 新季寄せ』
 (つばさある ものよりたかく くさのわた) いざわ・まさえ

 小貝川沿いに福岡堰があり、小貝川と堰の間の堤には2キロも続く桜並木がある。茨城県に越してきて桜の名所を探し廻っていて見つけたのが、福岡堰であった。桜の季節を過ぎても広い堤を歩くのが心地よい場所で、よく出かけた。秋になると、川沿いの原っぱから白いものが堤の上へ上へと飛んでくる。
 
 草の絮であった。「つばさあるものより高く」は、井沢正江氏の願いを込めた高さのように感じているが、きっと白く透きとおる草の絮は、眺めているとどこまでも上昇してゆくようであった。

■2句目

  名を知りてより草の穂のうつくしき  林原耒井 『現代俳句歳時記』
 (なをしりて よりくさのほの うつくしき) はやしばら・らいせい

 イネ科やカヤツリグサ科の雑草のえのころ草、苅萱、芒、蚊帳吊草などは、秋に穂花を出す。たとえば、誰もが「ねこじゃらし」という名で子どもの頃から親しんできたのは、イネ科エノコログサ属の植物で、一年生草本である。ブラシのように長い穂の形が独特な雑草である。
 蚊帳吊草はカヤツリグサ科の雑草で、カヤツリグサは「蚊帳吊り草」の意味である。長い茎があり、この茎を引き裂いて蚊帳を吊ったような四角形を作ってままごと遊びや、くすぐりっこをしていた。
 今でも、犬の散歩しながらゆく畑道に、ネコジャラシやカヤツリグサを見かけると摘みたくなる。
 
 句意はこうであろう。野原で一緒に歩いている友から「あっ、ネコジャラシだ!」「これはカヤツリグサよ!」などと教えられると、草の穂に視覚的に形が生まれ、想像力も逞しくなり、俄然、楽しくなってくる。下五の「うつくしき」は、「美しい」という美的なことではなく、心に感じる豊かさのようなものかもしれない。
 
■3句目・蒲の穂綿

  蒲の絮つけて因幡のけごろもよ  平畑静塔 『蝸牛 新季寄せ』
 (がまのわた つけていなばの けごろもよ) ひらはた・せいとう

 句意は、因幡のけごろも(白兎)が、蒲の穂を身体中につけられていますよ、となろうか。

 「けごろも」とは、哺乳動物の体表をおおう毛の全体をいう語で、ここでは因幡の白兎のことである。
 
 『古事記』に登場する因幡の白兎伝説では、向こう岸へ渡るのに、ワニたちを騙してワニの背を橋代わりにして向こう岸へ渡ろうとしたが、騙されたと気づいたワニに、ウサギは毛をむしられ赤裸になった。それを見た大国主命は、ガマの穂の花粉を塗り、ガマにくるまって寝なさいとウサギに教えたという話である。
 このガマの穂の花粉は、古来より生薬として利用され、花粉を陰干ししたものは、今も外用薬として利用される蒲黄(ほおう)と呼ばれる漢方薬である。