第七百十四夜 森下愛子の「秋灯下」の句

 今宵は、「秋灯」の句を紹介しよう。

  見舞はれてたゞ勿体なく秋灯下  森下愛子  『虹』(虚子の小説)
 (みまわれて ただもたいなく しゅうとうか) もりした・あいこ

 『虹』は、「虹」「愛居」「音楽は尚ほ続きをり」「小説は尚ほ続きをり」から成る四部作である。
 これらの小説の主役が、愛子こと森下愛子である。伊藤柏翠のこと三国のことを、二作目「愛居」(『現代日本文学全集六十六 高浜虚子集』筑摩書房)の巻末に、虚子は次のように記している。
 「越前の三国の或富豪の外腹に、愛子という娘があつた。鎌倉の七里ヶ浜の病院に長く入院してゐた。その頃に柏翠といふ俳人が同じその病院に入院してゐて、俳句を作り入院患者に教へてゐた。その中に愛子もゐた。二人は自然に親しくなつて行つた。二人は連れ立つて私の處に来た事もあつた。愛子は退院して三国へ帰つた。柏翠も退院して三国へ行つた。愛子の生みの母なる人は、もと芸者であつた人で、三味線も踊も達者な人であつた。別に一戸を拵へて貰つて裕福に暮してゐた。このような関係の下に、この「虹」といふ一連の小説(?)ははじまつてゐるのであつた。」
 文中の(?)は、虚子自身が付したものである。小説と呼ぶか「写生文」とするかで迷った(?)であった。

 昭和18年11月15日、虚子は、伊賀で行われる芭蕉二百五十年忌に参列するための関西旅行の途次、故郷の三国に帰っている病弟子の愛子を初めて見舞った。一方柏翠も、三国へのご来遊を熱心に虚子に薦めていた。
 
 「それは三国港が北陸きっての古き港で、松前貿易の北廻船の良港として、江戸末期には金の捨て場と云われ、花柳の巷としても三国小女郎の昔からの伝統が残り、芸妓の芸の良さも、又、町民にのこる義太夫芸のたしかさなどもお耳に入れてあり、殊に九頭竜河口の風景の美しさ、森田家の佇まい、愛子の家の四戸前の倉、その倉の石垣に打ち寄せる川水、鴨をはじめ、鳩、さては鵜までが、窓の下に遊泳する姿、即ち、昔栄えて今衰えた町の哀れ、余情について、虚子先生にお目にかけたかったのである。」(『伊藤柏翠自伝』より)

 昭和21年10月、虚子は六百号記念大会出席の旅の途中に、3度目の三国訪問をして寝たきりの森下愛子を見舞っている。
 虚子の「音楽は尚ほ続きをり」の中で興味深かったのが、愛子と虚子の「わがまま」のくだりである。
 愛子のわがままは、虚子から「今度は貴女の為にきたのですから何でも我儘をお云いなさい」と、言われたことに始まる小さなわがままである。東尋坊に吟行へ行く虚子に「お土産を持って来て下さい」とか、句会へ出席する虚子に「早く帰ってきて下さい」とか、寝ている愛子の側で食事をして欲しいとか句会をねだったことなどで、このわがままは皆、虚子が叶えてくれている。
 一方、虚子のわがままは成功していない。忙しい旅を終えた虚子は長く風邪をこじらせて伏せってしまった。愛子に言った「病人の権利のわがまま」を自分に当て嵌めて、わが家で試みたのだが、古妻のいと夫人は一向に相手にしてくれず、虚子は、句稿の端に冗談じみて愛子に訴えたりした。
 
 もう一つ興味を引いたのは数珠で、病床の愛子が、水晶の数珠を右手首にかけていると知った後で、虚子は、眠れない夜に細い手首に数珠をかけた愛子の姿を思い浮かべると眠りに落ちることができたというくだりである。
 この二つの事柄から感じたことは、虚子が愛子の前に大きく阿弥陀如来として存在していただけではなくて、病気で弱っていた虚子の心と大病の愛子の心が、平等な位置関係で互いに寄り添うことのできた瞬間があったということであった。虚子と愛子との間に人間的な甘やかな匂いのする場面があったことで、読者である私たちは、間近にある愛子の死を悲しみを以てだけでなく受け止めることができるのではないだろうか。
 
 この頃に詠まれた愛子の作品が〈見舞はれてたゞ勿体なく秋灯下〉であった。

 句意は、虚子が、ホトトギス六百号記念大会出席の途中であったこともあるが、何度も、三国の愛子の病気見舞いに訪れていた。大結社の主宰の虚子は、忙しいと思われるが、全国へ旅をしては弟子たちを訪れている。
 地方で句会の代表ではなく、1人の弟子である愛子を見舞ってくださるなんて、なんと有り難く、勿体ないことでしょう、という気持ちを詠んだものであろう。「たゞ勿体なく」から、愛子の心が痛いほどに伝わってきた。
 次の3人の句は『虹』の中にある作品である。

  見舞はれてたゞ勿体なく秋灯下  愛子
  かさと鳴る菊の枕に酔ひ心地  愛子
  明日よりは病忘れて菊枕  虚子
  俳諧に命あづけて菊枕  柏翠