第七十三夜 三橋鷹女の「椿」の句

  老いながら椿となつて踊りけり  三橋鷹女 『白骨』
 
 三橋鷹女(みつはし・たかじょ)は、明治三十二年(1899)―昭和四十七年(1972)、千葉県成田市生まれ。先祖には歌人が多く、鷹女も女学校卒業後、兄の師事する与謝野晶子や若山牧水に私淑していた。俳句は大正十五年頃からで、結婚した夫とともに原石鼎の「鹿火屋(かびや)」に入会。昭和九年には脱会して、小野蕪子の「鶏頭陣」、石鼎同人の「紺」に入会。以後はどこにも所属しなかったが、戦後昭和二十八年に、高柳重信の「薔薇」、後の「俳句評論」に入会。

 第一句集『向日葵』の〈みんな夢雪割草がさいたのね〉、第三句集『白骨』の〈鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし〉など代表作は、驚くほど明快に単純に主観を詠んでしまう鷹女のストレートな表現によって、読み手の心にすっと入っていくのであろう。
 第四句集『羊歯地獄』の自序に、次の詩がある。私の好きな一部を紹介させていただく。

「一片を書くことは、一片の鱗の剥脱である
 一片の鱗の剥脱は、生きてゐることの証(あかし)だと思ふ
 一片づつ 一片づつ剥脱して全身赤裸となる日の為に
「生きて 書け――」と心を励ます
 
 掲句を鑑賞してみよう。
 
 戦後はとくにダンスホールが流行していた。私の大学時代の昭和四十年の頃も、パーティーがあれば、ワルツやブルースやジルバやマンボなどよく踊っていた。
 昭和二十五年の鷹女は、まだ五十二歳であるが、この句のダンスの相手は子息であったという。母親と踊ってくれる息子っていいなあと思う。「老いながら」は、踊る相手が息子だからの表現であろうが、踊りながら椿になれそうなリズムは、アップテンポのほどよいジルバかもしれない。ときに女性をクルッと回転させてくれるから、知らず識らず華やぎ、まっ赤な一輪の椿にもなれそうである。
 この頃の鷹女は「老」の入った句を多く詠んでいる。老いてゆく母を看取ったことで、自身の老や死にゆく姿を考えることがあるのだろう。
 作品をもう一句紹介しよう。

  白露や死んでゆく日も帯締めて  『白骨』
 
 書籍で見かける写真の鷹女はいつも、凛とした着物姿で、襟元をきつく合わせ、帯をきりりと締めている。季語の「白露」は、思いを込めて詠む場合に用いることが多く、消える、徒なるのようなはかなさの一面があるようだ。