第七百二十二夜 高浜虚子の「時雨」の句

 今日は11月12日(陰暦10月12日)、俳人松尾芭蕉の忌日である。元禄7年上方の旅の途中、病気になり、大阪の花屋仁左衛門宅の裏座敷で亡くなった。享年51歳であった。芭蕉も愛した時雨の頃の忌日なので、「時雨忌」とも呼ばれる。
 
 高浜虚子の『虚子俳話』の「天地有情(三)」に、芭蕉のことが書かれている。
 「猿蓑」に時雨の句が多い。
 芭蕉は時雨を愛した。
 芭蕉一門の人は時雨を愛した。
 俳人は時雨を愛した。
 私も時雨を愛する。特に京の時雨を愛する。
 私は時雨をたづねて、京の西山、北山をさまよつた。
 天にも命がある。地にも命がある。
 その間に一粒か二粒の時雨が生れて、天地の命が動いて、それがほろと落ちる。
 俳諧の命。
 天地有情。
 
 今宵は、「時雨」の句を紹介しよう。
 

  子規墓参今年おくれし時雨かな  高浜虚子 『七百五十句』昭和33年11月23日
 (しきぼさん ことしおくれし しぐれかな) たかはま・きょし

 明治35年9月19日午前1時に息を引きとった子規忌には、虚子は毎年のように、田畑の大龍寺の子規の墓へ詣っていた。昭和33年の9月19日は、虚子は病床にあって子規忌の墓参は叶わなかったが、10月下旬になって、1と月遅れの墓参を果たした。
 「これで安心した」といふ言葉が耳に残っている。
と、星野立子編『虚子一日一句』に立子は書いている。

 句意は、子規忌には必ず詣っていたのに、今年の子規忌の墓参は病気で臥せっていたため命日に詣ることはできなかった。しかし遅れたけれど、こうして詣ることができた。10月下旬の時雨の降る日でしたよ、となろうか。

 掲句は、「今年おくれし」と詠んだ子規墓参を、「子規居士よ、今年はお詣りにくるのが、ちょっと遅れてしまいましたよ!」といった軽やかな詠み方をしている。
 しかし、この詠み方だからこそ、子規と虚子がともに生きた月日と、その後の月日とが全部つながっているということが、私たち読み手に伝わってくるのではないだろうか。

 子規と虚子は同じ頃に俳句を始めた。俳誌「ホトトギス」は、明治30年、子規という後盾があってスタートしたもので、最初の1年間は、柳原極堂が松山で創刊し、1年後の明治31年には東京へ移した。それ以降は虚子が継承した俳誌である。
 
 子規亡き後の56年間を、「ホトトギス」の運営の大仕事があり、俳句の上では、昭和4年に「俳句は花鳥諷詠詩であり、方法は、客観写生である」と説いた。大正初期から昭和初期までは新傾向俳句運動の河東碧梧桐と戦い、昭和8年には水原秋桜子と写生の方法で決別し、昭和10年には新興俳句運動と戦い、第二次世界大戦に突入した。
 まさに、虚子は、怒涛のごとく俳句と生きぬいてきたのであった。長い日月であった。

 平成23年に出版した拙著『図説 俳句』が仕上がった時、正岡子規と高浜虚子への御礼を籠めて、虚子の墓所のある鎌倉寿福寺と台東区根岸の子規庵と子規の墓所のある大龍寺へ出かけた。下記の句は、筆者がその折に詠んだもの。

 子規庵と大龍寺 3句
  木瓜の実や妹律と母の八重
  神の留守田端寺町坂の町
  片雲や十一月の子規墓前

 虚子旧居と寿福寺 3句
  江ノ電やすぐそこ光る冬の海
  矢倉ぬけここも冬芽の源氏山
  焦げさうな冬日を額に虚子墓前