第七百二十三夜 正岡子規の「小夜時雨」の句

    「弓町より」        石川啄木

 詩はいわゆる詩であってはいけない。人間の感情生活(もっと適当な言葉もあろうと思うが)の変化の厳密なる報告、正直なる日記でなければならぬ。したがって断片的でなければならぬ。――まとまりがあってはならぬ。(まとまりのある詩すなわち文芸上の哲学は、演繹的には小説となり、帰納的(きのうてき)には戯曲となる。詩とそれらとの関係は、日々の帳尻と月末もしくは年末決算との関係である。)そうして詩人は、けっして牧師が説教の材料を集め、淫売婦がある種の男を探すがごとくに、何らかの成心をもっていてはいけない。
       (『日本文学全集12 国木田独歩 石川啄木集』集英社より)

 今宵は、『正岡子規全集』より「時雨忌」の句を紹介しよう。

■1句目

  小夜時雨上野を虚子の来つゝあらん  正岡子規  病中二句
 (さよしぐれ うえのをきょしの きつつあらん) まさおか・しき
 
 明治28年、戦役従軍記者として赴いた中国から帰途の戦中で2度目の大喀血。脊椎カリエスとなった子規は、以降は病臥生活となる。
 
 掲句は明治29年作。この頃には、子規の枕頭には俳句と短歌の仲間たちが交代で寝ずの看病をしていた。この日の夜は虚子の番であった。初冬の雨はどこかものわびしい。まして夜雨はなお寂しい。早く今宵の当番の虚子が来て欲しい、という子規の気持ちが詠まれている。

 句意は、この時雨のなかを、虚子は下宿先の高田屋のある神田淡路町から、根岸の子規庵まで、上野の山を抜けて寛永寺坂を下ってくるところなのですよ、と、まるで恋人を待つような気持ちであったのだろう。
 
 子規の随筆『松羅玉液』には、「病み初めたるは、11月半になん。(略)人々代る代るおとづれとふらひたまひし中にも碧虚二子は常に枕をはなれず看護ねもごろなり。去年といひこたびと言ひ二子の恩を受くること多し。吾が命二子の手に繋がりて存するものゝ如し。吾が病める時二子傍に在れば苦も苦しからず死も亦頼むところあり。」とある。
 
 掲句は、この文の終りの9句中にある。
 
■2句目
  
  しぐるゝや蒟蒻冷えて臍の上  正岡子規
 (しぐるるや こんにゃくひえて へそのうえ) 

 1句目に「病中二句」の前書があり、この〈しぐるゝや蒟蒻冷えて臍の上〉と並んでいる。
 何故ここに「蒟蒻が・・?」と不思議であったが、宮坂静生著『子規秀句考』で調べると、子規はカリエスの余病として胃腸を患っていたという。
 蒟蒻を温めて、臍の上の胃腸を温めたのは、今で言う「湯たんぽ」代わりであった。
 
 句意はこうであろう、「しぐるゝや」は、冬の初めの頃に降ったり止んだりする通り雨である「時雨」のこと。横たわっている子規の臍の上に置いた湯婆代わりの蒟蒻もいつの間にか冷えて、忘れ物のごとく臍の上に置かれたままになっていましたよ、となろうか。
 
 この「病中二句」は、1句目は、心ときめかせて恋人を待つように虚子の訪れを待っている作品である。
 一方2句目の、恋人を待つような心持ちで横たわっている我が身(子規)ときたら、すっかり冷え切った湯婆代わりの蒟蒻を、臍の上にのせたままといった「態(ざま)」であったのですよ、と、子規は、見たまま感じたままを俳句にした。