第七百二十五夜 深見けん二の「小春日」の句

 朝の犬の散歩で、東の空の暁光を眺めながら、今日こそは、つくば山の近くから、国道6号線まで続くつくば市の408号線のモミジバフウ(アメリカフウ)街道の黄落を見てこようと、夫を連れ出した。毎年、1人でも出かけるが、黄落の具合がぴたっと嵌ったような美しさに出会うことはこれまで数回。その中の1回は、あまりの美しさに、408号線の端から端まで折り返したことがあった。
 
 今日は、国道6号線の近くで、あゝこの色よ、という光景に出会った。でも、だからと言って、素晴らしい俳句が詠めるわけではないのは、いつもいつもだ。
 
 今宵は、「小春」「小春日」の作品を見てみよう。

■1句目

  小春日の母の心に父住める  深見けん二 『雪の花』第2句集
 (こはるびの ははのこころに ちちすめる) ふかみ・けんじ

 けん二先生のお母様が平成2年に91歳で亡くなられた時、私は、光が丘のカルチャーセンターの深見けん二教室で学んでいた。どういう経緯でお母様のことを知ったのか、忘れてしまったが、覚えているのは、奥様からと仰って、句会の始まる前に、鎌倉豊島屋の小鳩豆楽の落雁を1人1人に包んでくださったことである。
 こうした時、けん二先生は、テーブルを回って1人1人に手渡してくださった。
 
 掲句の母は、けん二先生のお父上が昭和31年に亡くなられた後のお母様の日々の一齣である。小春日和という寒さに向かう中での暖かい日のひと時、たとえば、縁側に佇む母は、母の心にいつもいる父と、2人は語り合っているようでしたよ、と、けん二先生は思ったのではないだろうか。「母の心に父住める」とは、こういうことではないだろうか。
 よい家柄の出のお母様のことを、「どこかお嬢ちゃまの雰囲気があった」と、言っていらした龍子奥様を思い出す。
 
 掲句の父を、『父子唱和』の後記に次のように書いている。「私の中に一人間として認められる点があるとすれば、それは父の下に成長した間に父より享けたものだと考へてゐる。」と。
 
 深見けん二の心には、確かに、母恋よりはるかに強い父恋があったのだ。
 
 深見けん二は、大正11年3月5日、福島県生まれ。昭和16年高浜虚子、17年山口青邨に師事。平成元年、「F氏の会」を発足。平成3年、「F氏の会」を発展させ、俳誌「花鳥来」創刊主宰。昭和31年、父死去。71歳。平成2年、母死去。91歳。令和3年9月15日、深見けん二逝去、99歳。

■2句目

  就中今年の今日の小春かな  深見けん二 『もみの木』第10句集
 (なかんずく ことしのきょうの こはるかな) ふかみ・けんじ

 深見けん二先生の第10句集『もみの木』は、2018年、2019年、2020年、2021年の4章立てである。2021年の3月5日は、先生の白寿の誕生日をお元気に迎えられた。ここで、この句集を最後と決めて纏められたという。
 
 「小春」の作品を探していて、再度見直した『もみの木』にこの作品を見つけることができた。今年は、11月に入ってずっと晴天続きであった。いま午前11時。今日の空は雲ひとつない。まさに、「就中」であり、「今年の今日の小春かな」である。
 掲句は、2020年の作であった。
 
 ここ数年、少しづつお痩せになったかしら、弱られたかしら、と思う瞬間はあった。だが「花鳥来」の作品も、欠席投句と一緒に添えて下さるお手紙も、時折下さっていたお電話のお声もお元気であった。夏場はこれまでも元気のない日々を過ごしていらしたので、2021年の今年の夏も、涼しくなる頃には又元気なお声を聴くことができるだろうと楽しみにしていた。
 
 9月15日に、とうとうお亡くなりになってしまわれたが、追いかけるように、最後の贈物のような句集が届けられた。けん二先生の、明るく、前向きな、清廉な作品を目指しつつ、私も弟子の1人として、心してゆきたい。