第七百三十夜 三橋鷹女の「木の葉髪」の句

 「老い」と言えば、高浜虚子の6女であり、「春潮」主宰であった夫上野泰氏亡き後、主宰を続けてこられた上野章子氏の『佐介此頃』(角川書店刊)の1文を思い出す。毎月の大阪と神戸の句会が終わり、新幹線に乗車したときのエピソードである。今まで何十年と何事もなく乗り降りしていたのに、座席を間違えて座ってしまったのだ。隣の座席の若い男性のなにくれとない優しい動作、切符を間違えられたのに席を譲り隣の車両へ移動してくれた中年の男性、立ち上がったとき手を差し伸べてくれた車掌、章子氏はふっと「老い」を感じたのだった。文は77歳の章子氏である。
 1部を抜粋させていただく。

   闇の車窓                上野章子

 さっき、闇の車窓に映った自分の姿がふと浮かんだ。私は老人にしか見えないのである。
 (略)
 大阪から三時間、二十三年間通っている間に、この三時間ほど失敗をしたことはなかった。
 しかしこれほど親切にしてもらい労られたこともなかった。
 老い、ということも幸せなことだと思った。
                       (『佐介此頃』角川書店刊より)

 「老い」は、どうやら、自分で自覚する頃から始まるようだ。素敵な俳人に「老い」の達人は多いように見受けられた。
 「木の葉髪」の季語は、「十月の木の葉髪」ということわざがあるように、陰暦十月ごろに頭髪がよく脱けることをいう。冬の近づくころ、人の髪の毛は目立って落ちるようになる。この抜け毛の多さに年齢を思うなど、ある種のさびしさがある。

 今宵は、「木の葉髪」の作品を見てみよう。

  木の葉髪うたひ歎くやをとこらも  三橋鷹女 『三橋鷹女全集』
(このはがみ うたいなげくや おとこらも) みつはし・たかじょ

 中七の「うたひ歎くや」の「うたひ」は、なんだろうと不思議に思っていた。まさか「歌ふ」ではないだろうから、「訴ふ(うたう)」ではないかと思った。
 女ばかりでなく男たちも、年齢をかさね、秋になると、なにやら頭髪が薄くなってきた辛さを訴え、歎くこともある。中年になると帽子を被る男性が多い。年相応の箔がつく帽子姿は、もしかしたら木の葉髪を隠すためなのかもしれない。
 
 「うたひ歎くやをとこらも」の調べの、なんと素晴らしいことだろう。「うたひ」は「歌ひ」であってもよいように思えてくる。

 もう1句、紹介してみよう。

  木の葉髪わが反骨は痩せざりや  林 翔 『和紙』
(このはがみ わがはんこつは やせざりや) はやし・しょう

 林翔の頭髪はうすうすと木の葉髪になってきている。髪の毛は後退してきているが、俳句の世界では反骨精神で鳴らし、作品を詠んでいた私こと林翔である。林翔は、昭和8年に虚子の客観写生という写生のあり方に反発して「ホトトギス」を出た水原秋桜子門の、能村登四郎の弟子である。

 句集に『和紙』『寸前』『石笛』『幻化』『春菩薩』『あるがまま』『光年』。第1句集『和紙』で第10回俳人協会賞、第7句集『光年』で第20回詩歌文学館賞受賞。