第七百三十一夜 高浜虚子の「月の江口」の句

   文化勲章拝受祝賀会祝宴      土岐善麿

 ざっと数えて、もう五十年前、あるいはそれ以上にもなるわけなのだが、そのころ中学生としてぼくの接した句会席上の虚子先生と、いまこうしてこの「文化勲章拝受祝賀会」の主卓中央に、ゆたかな双頬に微笑、、をうかべながら、かすかに半眼を閉じるような表情の端然たる虚子翁と、それが久しい年処を越えて、何かまったく同じような錯覚の起こるのをぼくは禁じ得なかったのである。老いてますます壮健な俳壇の巨匠としてになわれた今回の栄誉は、もとより当然であるが、半世紀前といえば、まだ三十歳前後であった高浜さんが、当時のわれわれには、すでに現在と同じような、うつぜんたる存在であったことが、むしろふしぎなようにさえ回顧される。・・青年として早くも老大家の風格があったと共に、いま老大家としてなお青年のような気迫をもつことに対して、しばらくは僕自身もほとんど年を忘れるごとく感じていた。 (『春望』蝸牛社より)
 
 久しぶりに、高浜虚子著『能楽遊歩』を取り出した。古本で入手したが、すでにボロボロで、頁が抜けないようにそっと捲っている。古本は時々書き込みがしてある。この本には、昭和28年に福岡市の住吉能楽堂で野口兼資(のぐち・かねつぐ)が「隅田川」演能中に舞台で倒れ不帰の人となるを見物し大変感服する、と書かれていた。野口兼資は名だたる能楽師であったという。
 
 きっと今日も、何を書こうかと探し読みをする間にも、『能楽遊歩』の喉(ノド)は更に傷むことだろう。
 
 次の作品の3句は、虚子が野口兼資の「江口」を観たときの句である。
 能「江口」のあらすじはこうである。
 西行が天王寺へ参詣のため、江口の里(現大阪市東淀川区)までやってきたところ、にわか雨に遭った。困って一夜の宿を頼み込んだ。しかし、遊女妙(たえ)は宿を貸そうとしない。ここ江口の里は、遊女の住む里と言われる地。
 「ご出家の身だと伺ったので、こんな仮の世の宿などに心をお留めにならないように、と思っただけです」と当意即妙に返し、遊女屋に宿を求める西行を皮肉交じりにやんわりからかった、という話である。
 
 能舞台では、小舟の作り物があって、その小舟には、江口の君の霊と2人の侍女がのっている。
 
  澄みわたる月の江口のシテぞこれ  『五百五十句』昭和13年
 (すみわたる つきのえぐちの シテぞこれ) 
  
  一面に月の江口の舞台かな
 (いちめんの つきのえぐちの ぶたいかな)
  
  序の舞の序の徐ろに月の舞
 (じょのまいの じょのおもむろに つきのまい)

 1曲の能は、前半の前場、後半の後場に分かれていて、掲句の「江口のシテ」とは、後場に登場する後シテの江口の君の霊のことである。
 紹介する3句共に、後シテの江口の君の霊である。
 
 『能楽遊歩』に、虚子はこう書いている。
 
 野口兼資氏の「江口」は、まことに見事なものであつた。嘗て或る人が評して、本三番物は野口氏の檀上である、といふことをいつたが、能楽の基礎の鍛錬修業が十分に出来てゐる人でなければ本三番物はコナせないわけである。愚なるが如く拙なるが如く、若い時を唯修業に没頭した野口氏の芸の光りは、この「江口」の如き能によつて遺憾なく発揮せらるる。
 
 筆者も、能「江口」は代々木の国立能楽堂で観ている。生きている人間のみが登場する現在能に対し、「江口」など霊的な存在が主人公として登場するものを夢幻能という。後場での、小舟にのった江口の君と2人の侍女の3人は、皆、霊であろうという風情であった。足踏みも、微かな身の動きも、佇む風情も、極限に近い緩やかさと静かさであった。
 
 そう言えば、薪能も能楽堂にも、何年か観に行っていない。