第七百三十三夜 高浜虚子の「焚火」の句

 焚火の楽しかった思い出は、小学校時代に通った井草教会の日曜学校での、クリスマスの礼拝が果てた後に、大きな焚火を囲んだことであった。「おおきな栗の木のしたで、あなたとわたし、なかよくあそびましょ、おおきな栗の木のしたで」をみんなで歌った。
 ミッションスクールの高等部時代には、クリスマスの礼拝が終わると、広い校庭には大きな焚火が準備され、3学年全員での、フォークダンスをした。ぐるぐる回って組む相手が変わる曲はわくわくする・・仄かな恋の相手と出合う瞬間があったから・・。60年前の高校生の初恋は、ほぼこのようであった。
 
 茨城県取手市の利根川河川敷で、毎年1月15日、お正月飾りを燃やす「どんど」が行われる。取手市民だけでなく、広い河川敷はかなりの人出となる。真ん中に芯棒の竹を立てて、たくさんのお飾りが山積みとなる。西に夕日が沈み、真っ暗になると、どんど焼きの大きな焔が夜空を焦がしてゆく。振り返ってみると、後ろの葦原が黒々と迫ってくるようだ。
 
 焔の向こう側の人たちの顔が焔の色に染まっている。誰もがいい顔をしている。焚火の焔を眺めるのが好きなのだ! 

 今宵は、「落葉焚」「焚火」の句を紹介しよう。
 
  焚火かなし消えんとすれば育てられ  高浜虚子 『五百五十句』
 (たきびかなし きえんとすれば そだてられ) たかはま・きょし

 高浜虚子の作品で、第2句集『五百五十句』中にあり、昭和13年1月7日の作である。昭和11年、虚子は6女章子を伴って、初のヨーロッパ旅行へ出かけた。昭和12年には、第1句集『五百句』を刊行している。虚子は、昭和3年に「客観写生」「花鳥諷詠」を確立していて、水原秋桜子、高野素十、山口誓子、阿波野青畝の「四S」が活躍していた「ホトトギス」全盛期であったが、反対勢力の若い俳人たちによる新興俳句運動が興った時代でもあった。
 
 掲句は、「ホトトギス」の句会の1つの「家庭俳句会」で向島百花園で吟行した際に詠まれた。「家庭俳句会」は、大正12、3年ころ、難波紫春の発起で第1回を本田あふひ邸で開催したのが始まり。本田あふひ、池内たけし、高野素十など参加している。
 当時は題詠が多かったが、1月の最も寒い時期の百花園では、入園者のための焚火があったのかもしれない。
 
 焚火は、落葉や小枝や木切れなどの榾(ほだ)を入れると勢いよく燃える。だが「消えんとすれば=燃え尽きかかる」の状態になると、再び「育てられ=新しい落葉や木切れを焚火の投げ込むと、焔は勢いよく燃えだす」のである。
 こうして、焚火守りは「消えんとすれば育てられ」を繰り返してゆく。
 
 燃え続けることが、焚火の喜びかと思っていたので、「焚火かなし」は意外であった。焚火も、燃え続けることに草臥れてしまうことがあるのだろうか。「消えんとすれば」とは、もう燃え尽きてしまったから、焚火は消えようと思っていたのに、という意である。そして再び、焚火は落葉や小枝を投げ込まれて「育てられ」ることになったのだ。

 「焚火かなし」であった。
 
 虚子は、もともと主観の強い方であった。この作品は、焚火を客観写生した作品とも言えようが、焚火の本音が描かれた作品でもある。
 
 もう1句、紹介させていただく。

  焚火して仏頂面を通しをり  熊倉はるる 
 (たきびして ぶっちょうづらを とおしおり) くまくら・はるる

 この句は、筆者のあらきみほ編著『名句もかなわない子ども俳句170選』の「焚火」の中に紹介した作品。焚火の焔を眺めていると、不思議なことに、みんな黙って焔を見つめている。喋らなくってもいい。たとえ仏頂面をしているように、ぶすっとしているように見えたっていい。みんなの気持ちはあたたかく、心と心はつながっているから。
  熊倉はるる氏は、「仏頂面を通しけり」と詠んでいる。今宵は、自分と焚火の焔と、1対1で対峙したかったのだ。