第七百三十七夜 志解井司の「ふところ手(懐手)」の句

   「人間」になることのむずかしさ        ドブロリューボフ

 ドストイェフスキー氏の諸作品においてわれわれは、彼の書いているすべてのものに多少とも顕著なひとつの一般的特性を見出す。これは自分は自分ひとりは本当の・完全な・一人前の人間になる力がない、あるいはまたその上に権利さえないとおもいこんでいる人間にたいする痛苦である。(略)しかしながら生活にふみこんで、周囲を見廻すとき、彼は自分の個性を保ち、ひとりだちしようとする人間の希求がかつて一度も成功していないこと、そして希求する人たちの中で肺病やその他の精魂を枯らす病に早死してしまわないものは、つまるところ強情、交際嫌い、気狂いになるか、あるいは単純な・手ごたえのない鈍感さ、自己における人間性の抹殺にまで達し、自分をはるかに人間以下であると心からおもいこむにいたるということを知るであろう。
 (『打ちのめされた人々』重石正巳・石川正三共訳 日本評論社刊 世界古典文庫)

 今宵は、「懐手」「侘助」の作品を見てみよう。
 
  ソ連失せイワンの馬鹿のふところ手  志解井 司 『練馬野』
 (それんうせ イワンのばかの ふところで) しげい・つかさ

 冒頭の『打ちのめされた人々』の共訳の重石正巳の名字の「重石」を「志(し)解(げ)井(い)司(し)」とし、さらに、「志解井」と「司」にわけて、「しげい・つかさ」という俳号にした。私の父である。
 
 東京外語大では、ロシア語を学んだ。共訳した石川正三は大学の同期で、後に東京外語大ロシア語科の教授となった。父は新聞記者となった。父・重石正巳の唯一の翻訳書となった、共訳の『打ちのめされた人々』は、今も、ずっと仏壇の脇にビニールに入れて置いてある。大学を卒業したのは戦前で、すぐに母と結婚した。
 当時のソビエト連邦は社会主義国家で「赤」と言われていたので、書棚に並ぶロシア語関係や新しいソビエト連邦の雑誌を、母は背表紙が見えないように置いていた。私の小学校時代のことであった。
 
 その後、1991年(平成3年)12月にソビエト連邦は消滅し、ロシア連邦と改称した。日本はすっかりアメリカ寄りになったようで、5月1日のメーデーの日も、父に連れられて行ったデモで、赤い旗を振って代々木公園を歩くこともなくなった。
 政治的なことは弱い私だが、父のおかげで、ソ連のトルストイの小説「イワンの馬鹿」シリーズは小学校時代から読んでいた。

 掲句が詠まれたのは、1991年12月にソビエト連邦が消滅した直後のことであった。石寒汰主宰の「炎環・石神井句会」で投句したことを覚えている。同年輩の緒方輝さんが採ってくださり、名解説をしてくださった。
 
 もう1句、志解井司の句を見てみよう。
 
  抱瓶に侘助ひとつ波郷の忌  志解井 司 『練馬野』
 (だちびんに わびすけひとつ はきょうのき)

 11月21日のこの日が波郷忌であることを、父は知っていた。また波郷は椿が好みであり、なかでも酒中花という名の椿が好みであることも承知していた。

 抱瓶とは、沖縄で用いられる携帯用の酒瓶のこと。父は、私の夫の沖縄土産の抱瓶の形と深い色合いが気に入っていて、11月の終りの庭に咲いていた侘助を1輪活けた。侘助は椿の仲間で、小輪や中輪で、花弁の数の少なく、つぼまった形に咲く花で、ひっそりした雰囲気がある。

 抱瓶から酒を連想し、波郷の好きな椿の侘助、酒好きでもあった波郷の忌と、すべてが揃った。この日は父も母に大目に見てもらって、お酒はさぞ美味しかったであろう。