第七百三十八夜 山口青邨の「冬紅葉」の句

  冬が来た    高村光太郎
きつぱりと冬が来た
八つ手の白い花も消え
公孫樹いてふの木も箒ほうきになった

きりきりともみ込むような冬が来た
人にいやがられる冬
草木に背そむかれ、虫類に逃げられる冬が来た

冬よ
僕に来い、僕に来い
僕は冬の力、冬は僕の餌食ゑじきだ

しみ透れ、つきぬけ
火事を出せ、雪で埋めろ
刃物のやうな冬が来た

 一昨日のつくば植物園で見た「冬紅葉」は、池の傍にあって、反対側から眺めた池面には真っ赤な影を落としていた。守谷市を北上したつくば市は、空気がより澄んでいるのであろう、ラクウショウの黄葉も、茶色というより黃が強かったし、紅葉の赤はきわやかさがあった。植物園内では1枚の落葉も拾ってはいけない。残念だったが、押葉にしたい気持ちは諦めて、眼裏にとどめるだけにしておこう。

 今宵は、「冬紅葉」「紅葉散る」の句を見てみよう。

  猫間障子一枚冬紅葉を見する  山口青邨 『薔薇窓』
 (ねこましょうじいちまい ふゆもみじをみする) やまぐち・せいそん

 猫間とは猫の居る部屋のことで、江戸時代には既に、猫間障子というものはあったという。障子を閉め切っていると、猫は外に出られずに障子を破いてしまう。というわけで、猫が自由に出入りできるように作った小さな穴のような場所が猫間障子である。
 
 句意は、猫のための猫間障子ではあるが、その穴のような1枚の小さな障子から、冬紅葉を見せてくれていますよ、となろうか。

  うつきしきものみなひそか冬紅葉  山口青邨 『日は永し』
 (うつくしきもの みなひそか ふゆもみじ) やまぐち・せいそん

 冬紅葉というのは、秋も終わりとなる頃には、吹く風も強くなり、霜が降ったりする。紅葉が散ってしまうこともあるが、木に残っている紅葉もある。枝先に1枚、2枚となることもある。どこか侘しく、あわれという感じも出てくる。
 掲句は、最後の第13句集『日は永し』に収められており、青邨が亡くなる1年前の昭和62年、95歳の作品である。
 
 枝に散り残っている数枚の冬紅葉を見上げている青邨は、冬紅葉というものを、散り残こされている葉の佇まいがひそかであるがゆえに、うつくしさを感じさせるのですよ、と捉えている。

 青邨はまず、冬紅葉を「うつくしきものみなひそか」の1つであると捉えたが、読み手の我々にもう一歩深く、「うつくしきものみなひそか」の12文字へ立ち戻って、考えてほしいのではないだろうか。
 
 「うつくしきものみなひそか」の解釈はむつかしい。「みな」の2文字を入れたことによって、「うつくしきもの」「ひそか」が、冬紅葉だけに限らず普遍的となったからである。