短夜や乳ぜり泣く児の須可捨焉乎 竹下しづの女 『颯』
鑑賞をしてみよう。
蒸し暑い夏の夜明け、児は乳を欲しがって母親の乳房を求めてくる。教師として働いて疲れきっている母親に児は容赦ない。火のついたように泣く児に、思わずよぎる「捨てっちまおうか」である。 だが、一瞬はそう思っても、児を抱き上げて乳を含ませるのが、昔も今も変わらぬ母親というもの。明治になって、時代が変わり、男女平等の世の中を願ったとしても、子を産むことと乳を含ませる古来からの役割は、変わらない。
せめて「須可捨焉乎(すてっちまおか」と、しかも、解る人にしかわからない漢語でオブラートに包み込んだ語気の強さは、瞬間「あらっ」と思わせるが、次の瞬間にはユーモラスな表現となって伝わる。このような本音は、人には洩らさないけど、母親となり、待ったなしの子育中には、誰しも体験する思いだ。だから、共鳴できる代表句として、人の心に入り込んでいくのだろう。
大正九年に「ホトトギス」に投句を始めたしづの女は、二回目の投句で初巻頭になり七句掲載された。『ホトトギス巻頭句集』に山下一海の一文があり、そこに虚子の月々の雑詠の選び方を次のように語っている。
「つまり雑詠では多少未成品であっても、其の当時の新しい趨向に突進したものを特に取るという傾きがある」。これは後に、虚子の言う「選は創作なり」である。
竹下しづの女(たけした・しづのじょ)は、明治二十年(1887)―昭和二十六年(1951)、福岡県行橋市の生まれ。小倉師範学校教諭。夫の死後は図書館司書勤務。〈日を追わぬ大向日葵となりにけり〉など、俳句の素材に時代的なモダニズムがある。昭和十二年、学生俳句連盟を結成し、機関誌「成層圏」を指導。人生に立ち向かう姿の見える句を詠むことが、しづの女の俳人としての生きる道であった。「主観なくして」「自己なくして」何の俳句ぞ、と考えるしづの女である。
もう一句、紹介しよう。
緑蔭や矢を獲ては鳴る白き的 『颯』
「矢を射ては鳴る白き的」であれば客観写生であるが、「矢を獲(え)ては鳴る白き的」なので、矢をはっしと受け止めているのは、白き的であり、しづの女自身なのである。夫を早くに亡くして、女手ひとつで五人の子を育て上げることは、まさに、はっしと受け止めて生きることだったに違いない。