第七十四夜 沢木欣一の「白鳥」の句

  八雲わけ大白鳥の行方かな  沢木欣一 『白鳥』

 鑑賞してみよう。

 この作品は、長い昭和の時代が終わり、平成の世となったときに、新潟県の瓢湖で詠んだもの。第十一句集『白鳥』所収の句。「昭和終え平成となりし日に」という前書がある。「八雲」「大白鳥」は、昭和天皇に象徴される昭和時代に思いを馳せた句である。戦争に反発しつつ生きた欣一であるが、人生大半を過ごした昭和の終焉はどこか大白鳥の重たい飛翔にも似た感懐がある。

 沢木欣一(さわき・きんいち)は、大正八年(1919)―平成十三年(2001)年、富山市生まれ。父の仕事で、小中学校時代を朝鮮で育った。昭和十四年より「馬酔木」「鶴」「寒雷」に投句。加藤楸邨に師事。昭和二十一年に金沢で「風」を創刊主宰、当時の社会性俳句運動の一大拠点となる。
 創刊した「風」には、細見綾子、若い金子兜太、永田耕衣、森澄雄、佐藤鬼房たちがいた。戦中から戦後の時代というのは、若者と俳句は離れてはいなかった。短い詩型であることが、若者にとって時代の暗さの突破口となり得たのだろう。

 欣一が「風」を創刊した翌年、欣一が二十九歳、綾子が四十一歳のときに結婚した。〈女の目栗を剥くとき慈顔かな〉〈わが妻に長き青春桜餅〉、また妻の綾子が亡くなってからの第十二句集『綾子の手』には、結婚前、戦地に征く前の別れの句〈妻の裸初めて描き征きにける〉など所収。
 欣一は、「加藤楸邨に俳句の土性骨を教えられ、俳句の詩としての在り方を強く草田男氏から、詩の在り方の純粋さにおいて細見綾子に学んだ」という。

  天の川柱のごとく見て眠る 『雪白』

 第一句集『雪白』所収の句。昭和十七年八月、大学一年の夏休みに欣一は、楸邨一行の北陸旅行に同道した。楸邨は当時「芭蕉俳句研究」を始めていて、芭蕉の「奥の細道」を辿る旅をしていた。
 天の川は、芭蕉の句では「よこたふ」である。欣一の句では、佐渡へ掛かる天の川は、一本の柱がすっくと立っているようだ。
 芭蕉とともに旅をした曽良のメモには、当日は雨天だったとある。『天気の100不思議』の著者で、気象衛星センター所長の村松輝男は、当日の佐渡の荒海の句は台風の時であり、また、柏崎から見た天の川は、佐渡の上に「よこたふ」ことはないと言い、おそらく芭蕉の詩的幻想であろう、と述べている。

 ともあれ、欣一の中七の「柱のごとく」には感性の潔さ、下五の「見て眠る」には、二十三歳の若さを感じた。