第七百四十夜 下村槐太の「大根焚」の句

   悟浄出世           中島 敦
 
 次のように言った男もあった。「一つの継続した我とはなんだ? それは記憶の堆積(たいせき)だよ」と。この男はまた悟浄にこう教えてくれた。「記憶の喪失ということが、俺たちの毎日していることの全部だ。忘れてしまっていることを忘れてしまっているゆえ、いろんなことが新しく感じられるんだが、実は、あれは、俺たちが何もかも徹底的に忘れちまうからのことなんだ。昨日のことどころか、一瞬間前のことも、つまりそのときの知覚、そのときの感情をも何もかも次の瞬間には忘れちまっているんだ。それらの、ほんの僅か一部の、朧げな複製があとに残るにすぎないんだ。だから、悟浄よ、現在の瞬間てやつは、なんと、たいしたものじゃないか」と。 (『李陵・山月記・弟子・名人伝』角川文庫)
 ※中島敦(なかじま・あつし)は、作家で代表作に『山月記』など。
 ※悟浄(ごじょう)は、西遊記シリーズ後編に出てくる『悟浄歎異』の主人公の悟浄のこと。

 今宵は、「大根焚く」の句を見てみよう。
 
 大根の主な栄養素と効能と効果は、イソチオシアネート、消化酵素、ビタミンCに含まれている。その中のイソチオシアネートには、大根の細胞が破壊されることで発生し、大根の辛味の原因である優れた抗菌作用や血栓の予防効果があり、がんの抑制効果も期待できるといわれ、1番は大根おろしが効果的だという。
 
  死にたれば人来て大根煮きはじむ  下村槐太 『今日の一句』村上護
 (しにたれば ひときてだいこ たきはじむ) しもむら・かいた

 長崎市で3年過ごしたが、お盆と正月に夫の生地の島原へ帰ると、例えばお正月には親戚が集まって、一日がかりで餅搗きをしていた。何回も臼で搗き、女性一同で餅を丸め、座敷一杯に敷き詰めていた。さながら餅絨毯・・! お盆には、親戚中が集まり、夫の母は、何もかも手作りで膳を拵えていたから、娘も嫁も、1番大変なのは母であったが、へとへとになる。昔の流儀であった。
 
 掲句はこうであろう。通夜の後、通夜振る舞い(つやぶるまい)といって弔問客を別室でもてなす。煮大根もその1品である。親戚、ご近所の女性たちは人が亡くなると、通夜の客のための大根を焚いて準備したりすることがある。
 
 「死にたれば」と、ずばっと詠まれるとドキッとさせられる。現代では葬儀屋が全てを取り仕切ってくれて便利であり、煩わしさもないが、こうしたご近所の方たちの素早い動きが、都会生活では見ることの少なくなった地域の共同社会の人情味であろうか。
 
  後の世もこの世も大事大根焚  北川法雨 『ホトトギス新歳時記』
 (のちのよも このよもだいじ だいこたき)  きたがわ・ほうう

 12月9日、10日に行われる京都市右京区鳴滝の了徳寺で行われる行事が大根焚である。かつて老齢の親鸞聖人が、この地に足をとどめ法を説いた時、土地の人が帰依して大根を煮て上人に供したという。上人が喜ばれたという故事に基づいて起こった供養で、この2日間は庭に大釜を据えて大根を焚いて参詣者に供する。
 
 親鸞聖人の浄土真宗とは、阿弥陀仏の浄土に生れて悟りを開くことを目的とする仏教の一派。 掲句の「後の世」は阿弥陀仏のいる浄土であり、「この世」は現在生きている世界、現世のことである。北川法雨は、浄土も現世も、どちらも大切なのですよ、と詠んでいる。
 「大根焚」は、お供え物であると同時に、集まって大根焚をする人たちが食べる物でもあり、これが本来の供養ということであろう。