第七百四十二夜 野沢節子の「落葉(からまつ散る)」の句

   管絃祭          竹西寛子
   
 何年ぶりに見るなつかしい篝火であったろう。二つの篝火は、舳先でものすごい火の粉を夜の海に撒き、いま一つの篝火は、待つもののつつましさに燃えて二つの火を近寄せていた。寄って行くのは、厳島神社の鳳輦(ほうれん)をのせたご座船の火であり、迎えるのは、同じ島の北岸にたつ長浜神社のそれである。
 月が昇るにつれて、雲はしだいにうすく切れていった。私の乗せてもらっている水先案内の船の中に、時々小鰯に似た魚がとび込み、船底で勢いよくはねた。七月二十日、安芸の宮島は、管絃祭にはなやいでいた。
 この祭の歴史について、厳島神社の野坂元定氏はこう記されている。
 「雅楽管弦が平清盛によって厳島神社に移され、それ以後毎年陰暦六月十七日夜に、厳島神社及海岸鎮座の摂末社の前とで、之を奏し、御神慮を慰め奉ることとした。明治十五年からは管弦船に御鳳輦をのせて海上渡御の形となった。」
 (『ものに逢える日』新潮社)
 ※1996年12月5日、厳島神社、原爆ドーム世界遺産登録された日。

 今宵は、「落葉」の作品を見てみよう。

  からまつ散る縷々ささやかれゐるごとし  野澤節子 『野澤節子全句集』
 (からまつちる るるささやかれ いるごとし) のざわ・せつこ

 前橋市で、軽井沢に入る道を間違えてしまい、山中を通る羽目になったことがあった。40年も昔のことで、車には便利な機器は付いていなかった。地図帳を広げてのドライブであった。どうしよう~と思いつつ、ともかく道ある限り前進していた。
 一つだけ素敵だったことは、カラマツ黄葉の中を走っていたこと。しかもこれまで見たことがない美しく透きとおった黄葉であったのだ。かなり高度な山中で、空気はきれいであったことが黄葉の美しさになっていたのであろう。
 道に迷うことも、悪いことばかりでないな、と、楽しく運転しているうちに、「軽井沢」という道路地図に出合った。
 
 その後、到着した友人の家の近くで、カラマツ落葉の光景を見ることができた。
 
 中七下五の「縷々ささやかれゐるごとし」に惹かれ、どんなふうに散るのか知りたいと思っていた。カラマツは、やわらかな細い針のような葉で、散るときは小さく細い葉はばらばらに落ちてゆく。しかも、途切れることもな散りく、しずかな様で、落ちてゆくのだった。
 
 野澤節子は、大正9年(1920年)横浜市生まれ。脊椎カリエスで長い病臥生活は、37歳で完治した。俳句は大野林火の「濱」に創刊号より所属。後に「蘭」を創刊主宰。代表作に〈われ病めり今宵一匹の蜘蛛も宥さず〉。

 もう1句、紹介させていただこう。

  武蔵野の今日も青空落葉道  深見けん二 『もみの木』2020年
 (むさしのの きょうもあおぞら おちばみち) ふかみ・けんじ

 「花鳥来」の12月の2回目の句会の後は、忘年会というかクリスマスパーティというか、この楽しい会は、長いこと住んでいらした所沢市下安松のご自宅で行われた。1番最初に訪れた日、吟行先から歩いたことを覚えている。
 この日は丁度、21日か22日の冬至であった。冬晴れの美しい日で夕暮も美しく、西に夕日が沈み、東から月が昇ってくるという、めでたさの重なったような光景であった。
 
 1年に1回、けん二先生のお宅で龍子奥様の手作りの大御馳走と手作りケーキのブッシュ・ド・ノエルと、男性たちはお酒も入ってのパーティとなった。この日は参加者が多い。40人近い大人で、2部屋がぎゅうぎゅう詰めとなり、33年前(?)の、俳句の初心者もいる集まりは血気盛んで、俳句論もにぎやかであった。
 
 掲句は、けん二先生のお宅の近くには、歩いて行ける小川沿いの林がある。まさに武蔵野の林で、遅れて参加した時など、1人で通り抜けるのが少し怖さを感じるほどであった。また、所沢の駅を降り、所沢街道をゆくと武蔵野特有のケヤキ並木がつづいている。
 先生はご近所もよく歩かれて吟行なさっていた。この日も冬晴れの青空の美しい日で、ケヤキ並木は落葉となっていたのだろう。
 
 いろいろと懐かしく思い出してしまった。