聖ニコラウスの日 植田重雄
聖ニコラウスの伝説は豊富にあり、ずっと今日にまで語り伝えられて来ている。その主要なものをいくつかあげてみよう。ミュラ(またはミラ)の町のある貧しい家に、父親と三人の娘が暮らしていた。気立てのよい娘たちであったためよい縁談があったが、持参金がないのであきらめて破談にしようと思っていた。その話をきいてニコラウスは、夜窓から金塊をこっそり投げ入れた。そのお陰で幸福な結婚をすることができた。あとの二人の娘にも同じようなことが起こった。最後の娘のとき、このようなことをするのは、いったいどんな人なのかと、秘かに父親があとをつけていったところ、ニコラウス司教であることが分かった。驚いた父親は彼の足許にひざまずいて感謝を表そうとした。しかし彼はそれを押し止め、自分が生きている間は他言してはならないといった。このかくれた施しは、いつしか人々の間に語り伝えられるようになった。 (『守護聖者』中央公論社)
※12月6日は、ミラの聖ニコラウスの祝日。
今宵は、「寒し」の作品を紹介してみよう。
寒かりしこと海青くありしこと 深見けん二 『雪の花』第2句集
(さむかりしこと うみあおくありしこと) ふかみ・けんじ
『雪の花』はけん二先生の第2句集で、昭和31年より50年、34歳より53歳までの作品が収録されている。掲句の正確な製作年は調べることができなかったが、「花鳥来」で、私たちが学び始めたのは平成元年であったから、それより20年ほど前の作品であったと思う。
句意は次のようであろうか。冬の海は、太平洋側と日本海側では違うが、波は荒く、海の色は紺青をうねらせて寒々とした凄みがある。穏やかな詠み方から太平洋側かもしれないが、まさしく冬の海であり、「寒かりしこと」と「海青くありしこと」であった。
この二句一章の作品は、深見けん二作としては珍しく、掲句を読み直して、今、とても新鮮に感じている。
虚子の句は広い。指導者として教える客観写生の道だけではなかった。
深見けん二著『折にふれて』の100頁目に「本当に感じたことを正直に言う」があるが、そこに、大峯あきらが、稽古会で虚子から学んだこととして、虚子の次の言葉を挙げている。
「自分が本当に感じたことを正直に言うのが、良い俳句なのです。」の言葉をあげている。
あきらさん曰く「あたりまえのことに驚いて、その驚きが我れ知らず言葉になったものが本当の詩なのである。」
もう1句、紹介させていただく。
街燈の燈る寒さの一つづつ 深見けん二 『父子唱和』第1句集
(がいとうの ともるさむさの ひとつずつ) ふかみ・けんじ
季語は「寒燈」としてもよいが、『深見けん二俳句集成』では「寒し」の項目に入っていた。下五の「一つづつ」から、街燈は5メートル置き、10メートル置きに灯されていることが分かった。5メートル先に寒燈を見て歩く。再び5メートル先に寒燈がある。寒い冬の、会社からの帰宅途中の寒燈であろう、1日の疲れもあって、もうすぐわが家と思ったとき、暖かなわが家が近いのに、却って寒燈の寒さを感じるものなのであろう。
平凡な「一つづつ」の言葉に、なぜか、強い気持ちが伝わってきた。