第七百四十四夜 石塚友二の「十二月」の句

 1年の最後の月の呼び名には、十二月、極月、師走がある。「極まる」とは、物事がこれが果てという所まで来ることで、1月に始まった12ヶ月の1日1日が過ぎて、いよいよ果てようとしている最後の1と月が極月ということになる。
 極月には、クリスマスがあり正月がやってくる。子どもたちにとっての十二月と、仕事している大人の十二月は気分が違う。大人にとっては、「極=極まる」を感じる月かもしれない。
 
 今宵は、「十二月」「師走」「極月」の作品を見てみよう。俳句では、どのような光景、心象風景が見えてくるのだろうか。
  
■「十二月」の作品

  主を頌むるをさなが歌や十二月  石塚友二 『光塵』
 (しゅをほむる おさながうたや じゅうにがつ) いしづか・ともじ

 5歳の頃、わが家は東京都杉並区の井草教会とひこばえ幼稚園の門の前の、道を挟んだ反対側に住んでいた。小学校入学前だったので、ひこばえ幼稚園に通うことはなかったが、日曜学校には中学校まで参加していた。
 十二月、讃美歌のクリスマスの頃に歌う1つが、次の歌詞であった。
 
 「イエスさま イエスさま わたくしたちを あなたのよい子に してください」
 
 子ども讃美歌で、もうタイトルは忘れてしまったが・・この歌詞は覚えているし、この部分だけは今でも歌うことはできる。もうじき77歳を迎える年なのに、今でも、「あなたのよい子にしてください」の歌詞がふっと過ることがある。

■「師走」の作品

  師走と云ふ言の葉ゆゑにせはしくて  池上不二子 『池上不二子集』
 (しわすという ことのはゆえに せわしくて) いけがみ・ふじこ

 池上不二子は「ホトトギス」の俳人。夫の池上浩山人は俳人であり、また掛軸や屏風、障壁画、冊子など紙や絹でできた文化財の保存や修理を専門にする装潢師(そうこうし)である。
 池上不二子を知ったのは、田辺聖子著の『わが衣ぬぐやまつわる…わが愛の杉田久女』を読んだときであった。たしか、久女は句集を出したくて、しかし虚子から序文を書くという返事をもらえなかった頃であったが、句集の準備をしておきたかった。
 
 十二月になると忙しい。ことに夫の池上浩山人の装潢師という仕事柄、正月のための掛軸や屏風の修理などもあって、妻の不二子も忙しかったと思われる。

 本当に忙しい時期なのだけれど、「師走」という言葉があるから、この言葉にとらわれるように、気忙しくなるものなのですよ、と、不二子は詠んだ。
 「言の葉ゆゑにせはしくて」と詠んでいるところが、どこかゆったりして、ゆとりある心持ちを感じせてくれる。

■「極月」の作品

  極月の人々人々道にあり  山口青邨 『雪國』昭和10年作。
 (ごくげつの ひとひとひとひと みちにあり) やまぐち・せいそん

 「人々人々」は「ひとひとひとひと」と読んでいいのであろうか、とふっと不安が過るが、ひとひとひとひと、と読むことによって、極月らしさ年末らしさの、溢れんばかりの人出が感じられる。
 小さい頃から人混みが好きではなかった私は、年末になると、買い物の好きな母は、父と私を連れて新宿、銀座、横浜へ出かけ、買物を済ませるとちょっと豪華なレストランで御馳走してくれた。

 山口青邨も、普段はしっかり家を守っている奥様と4人の子どもたちを連れて、街へ繰り出したかもしれない。極月の人々はだれもが忙しげに楽しげに、街に溢れていた。
 
 今年の年末は、わが家はどんな景色になるであろうか。