第七百四十七夜 京極杞陽の「炉辺」の句

   ノーベルの遺言        石田寅夫

 ノーベル賞は、ダイナマイトを発明して巨万の富を築いたスウェーデンのアフルレッド・バルンハート・ノーベルが、妻子なく、親兄弟とも死別し、一人さみしく六十三年の生涯を閉じる際に残した遺言に基づき、一九〇一年より始まった国際賞である。その遺言にはこう記されている。「基金を設立し、その利子を毎年、その前年に人類のために最も貢献した人に賞として与えるものとする。(略)」。(『あなたも狙え! ノーベル賞』―科学者99人の受賞物語 化学同人)
 
 ノーベル賞は、物理学、科学、生理学及び医学、文学、国家間の有効と平和の推進に最も尽くした人、という5部門に与えるとしたが、1969年よりノーベル経済学賞が新設され、現在6部門となった。
 
 2021年度のノーベル物理学賞は、日本人の真鍋淑郎氏が受賞した。50年以上前に「二酸化炭素が増えれば地球の気温が上昇し、地球温暖化につながる」ということを世界に先駆けて発表。受賞理由は「現代の気候の研究の基礎となったから」である。

 今宵は、「炉辺」「炉火」の作品を見てみよう。

■炉辺

  詩の如くちらりと人の炉辺に泣く  京極杞陽 『六の花』
 (しのごとく ちらりとひとの ろべになく) きょうごく・きよう
 
 私が京極杞陽を最初に知ったのは虚子の小説の中である。

 掲句は、虚子の小説ともいうべき写生文で、弟子の森田愛子をモデルとした「虹」「愛居」「音楽は尚ほ続きをり」「小説は尚ほ続きをり」の4作品の第3作目の「音楽は尚ほ続きをり」の文中に出てくる。
 昭和21年6月、当時虚子の疎開先の小諸で催された「ホトトギス」六百号記念俳句会に100人ほどが集まった。句会後の宴会の余興で、おはんや実花や愛子のお母さんが踊り三味線を引き、杞陽は小唄を歌った。この時から杞陽は「虹物語」へ登場する。
 翌日は、おはん、実花、素十、比古、杞陽、柏翠、愛子、お母さん、年尾、立子などが残り、手狭だった虚子の住居の隣に蚕室を改築した俳小屋が漸く出来上がったというので、「俳小屋開き」の句会をすることになった。板間の部屋は、真ん中に炉が切られ白樺の榾が入れてあった。
 愛子は皆に背を向けて庭を見ながら句を案じていたが、物思いに耽っているようにも見えた。杞陽は、愛子のことを虚子からも九羊会の仲間の柏翠からも話に聞いていたが、その時初めて胸を病んでいる美しい愛子を目の当たりにした。
 
 句会の披講で読み上げられたのが掲句であった。
 
 掲句は、森田愛子を詠んだとされる作品である。実際には愛子は泣いていたのではなかったろうが、京極杞陽はそう感じた。病気がちの愛子は、俳小屋の炉の前にいて、物思いに耽って句を案じている。杞陽には、そのとき小柄な愛子から発するすべてが、悲しみに沈んでいる美しさが、詩のように思えたのだ。

 この後も、杞陽は虚子一行と三国の愛居へ出かけ、愛子が亡くなった時には、病気の虚子の代わりに愛子の葬儀へ出席し、法要や墓参りにも出席するなど、愛子の「虹物語」とずっと関わり続けた。

■炉火

  炉火いよよ美しければ言もなし  松本たかし 『石魂』
 (ろびいよよ うつくしければ こともなし) まつもと・たかし
 
 炉火の読み方は、ろび、ろか、とある。筆者の私は「ろび」と読むが、半々くらいに分かれるという。
 
 掲句の炉火は、レンガや石材などを使って建物と一体に作られた暖炉。赤々と燃える焔。勢いが落ちると石炭や薪を炉に焚べ、ふたたび焔は燃えさかる。たかしは、あまりの美しさに言葉もなくじっと見ているのだ。

 焚火もそうだが、焔の赤は、一つことに集中し、もの思わせる色である。