第七百五十二夜 細川加賀の「山眠る」の句

   伝統俳句(再び)        高浜虚子
   
 昔、子規の枕頭で俳句の命数といふ事が問題になつた事がある。早晩尽きるといふ事には誰の意見も一致した。十七字と限られた以上、バーミュテーション(順列)とか、コンビネーション(組合せ)とかいふもので計算しても、限りのあるものである事は疑ふ余地がない。十七文字の天地にちぢかまつてゐるよりも新しい詩を選むべきである、といふ説もあつた。
 私は亡ぶべき時が来たら亡ぶのもよからうではないか、と考へた。以来五六十年、未だ亡びさうにもない。
 (略)
 この小さい潔い天地に留る事を欲しないものは去れ。この伝統芸術を愛好するものは留れ。俳句の亡びる時を気にする人は、又人類の亡び、地球の亡びる時を気にする人であらう。30・9・27 (『虚子俳話』より)

 今宵は、「山眠る」「冬の山」の作品を見てみよう。
 

  筑波嶺は夫婦ながらに眠りけり  細川加賀 『細川加賀全句集』
 (つくばねは めおとながらに ねむりけり) ほそかわ・かが

 筆者の私は、茨城県守谷市に住んでいる。鬼怒川沿いに北へ車を走らせると、広がる田の東側に筑波山が美しい全容を見せてくれる。広々とした関東平野のそびえ立つ紫峰は、標高877で男体山と女体山の2つの峰を持つ。東に筑波山、遠く西に富士山を眺めることができる。
 
 「山眠る」は、『臥遊録』に「冬山惨淡として眠るがごとし」とあるのによって季語として使われるようになった。落葉し尽くした山々が冬日を受けて、静かに眠っているように見えることから言われるようになった。春の「山笑う」、秋の「山粧う」など、擬人法による表現である。
 
 筑波嶺の男体山と女体山の2つの峰は夫婦のよう。しかも今は冬山という、静かな眠っているような姿である。しかも「夫婦ながらに眠りけり」からは、まことに仲のよい幸せな夫婦ぶりであることがわかる。


  炭竃に塗込めし火や山眠る  松本たかし 『野守』
 (すみがまに ぬりこめしひや ねむりけり) まつもと・たかし
 
 炭竃は炭焼き窯のこと。炭竃は家屋から離れた場所に作る。炭を作るには、木を切って炭竃に入れて火をつけて蓋をし、火を絶やさないように穴から見守りながら3、4日ほど燃やし続ける。これが「塗込めし火」である。

 塗り込められた炭竃の中では、炭を焼く火が赤々と燃え続けている。辺りの冬山は静かな色のない世界で眠っているようである。たかしは、炭竃の中で激しく燃える焔の赤と、眠っている冬山の静かな白とを対比させた。たかしは、焔の赤のインパクトある強さを詠みたかったのではないだろうか。「塗込めし火」は見事な客観写生であり客観描写である。
 
 幼少からの能の厳しい稽古と型を学ぶための「習練」の日々と、病気以降の療養の有り余る時間を自然の中で過ごした日々とによって、たかしは期せずして、虚子の導く「客観写生」の鍛錬の道へ自然に入ってゆけた。客観写生の道とは、瞬時に言葉を掴むデッサン力を磨くことである。

 小さな詩型の俳句を短刀に喩えて、「間髪」とは「俳句の表情は一瞬間で決まる」ものであると、たかしは言う。