第七百五十四夜 中村吉右衛門の「かす汁」の句

  切字の切れ味        高浜虚子
  
 「や」「かな」といふのは、例へば「秋風や」とか「紅葉かな」とか、俳句にのみ特別にある切字をいふのである。従つて「や」「かな」と言へば直ぐ俳句を意味する。俳句の切字はたくさんあるが、「や」「かな」はその代表となつてゐる。(略)
 「何々や」「何々かな」といふ事を習得し、それで思想を運び得る技術を習得する事が、俳句に這入る第一の関門である。
 これはいかに文字を省略するか、といふ技術の根底をなすものである。
 俳句ほど極端に文字を省略するものはない。普通の文章からいへば、殆ど意味をなさないまでに文字を省略する。その文字の省略を償うて余りあるほどの力を有するものが、「や」「かな」の如き切字である。
 俳句を作るには先づこの切字の切れ味、三尺の秋水の如き、その切れ味を習得せねばならなぬ。
 この経路を経て来た作者のみ、後に自由な(切字に頓着なき)正しき句を作る事が出来る。〈32・10・6〉(『虚子俳話』より)

 今宵は、感動や呼びかけを表す切れ字「や」「かな」「けり」の作品をみてみよう。
 
■「や」

  茶の花や働くこゑのちらばりて  大野林火
 (ちゃのはなや はたらくこえの ちらばりて) おおの・りんか

 一面の茶畑では、秋になって茶の花の咲く頃の二番茶を摘んでいる声がとびかっていますよ、という句意であろう。
 
 上五に「茶の花や」と、切れ字の「や」が置かれている。大きな茶畑には畝が長く作られている。畝に立って茶畑の手入れをするためであるが、茶摘みの時期に動きやすいように作られている。だが、この日の大野林火は、茶の花が茶畑の畝にほつほつと白く可憐な花を咲かせている光景に感動しているのだ。「や」の働きによって、茶の花の美しさが伝わってきた。
 
■「かな」

  かす汁をうすめてくれる内儀かな  中村吉右衛門 『吉右衛門句集』
 (かすじるを うすめてくれる ないぎかな) なかむら・きちえもん

 作者の中村吉右衛門は、初代中村吉右衛門のこと。明治19年(1886)-昭和29年(1954)、東京浅草の生まれ。歌舞伎役者。「ホトトギス」の高浜虚子に師事し、句集『吉右衛門句集』がある。

 『ホトトギス 虚子と100人の名句集』の中で、虚子は「氏の句は純粋率直、何の求めるところなく、何の衒(てら)うところもなかった。」と、評している。だが、歌舞伎となると人一倍の熱心さであったという。

 掲句は、歌舞伎の舞台の1場面かもしれないと想像してみた。町家のおかみさんが粕汁を出してくれた。煮詰まったのか汁の味が濃い。「あら、濃かったかしら。うすめてさしあげましょう。」と、お湯を差してくれたのだろうか。
 
 作者が歌舞伎役者の初代中村吉右衛門の作品だからであろう。切れ字「かな」は、「…だなあ」と感動や詠嘆を表すものであるが、舞台では効果音に合わせて役者が身体の動きを止め、首を回すように振って最後にグィッとにらんだ目をして静止する、いわゆる「見得」のポーズにも見えてくる。
 
■「けり」

  洗ひ上げ白菜も妻もかがやけり  能村登四郎
 (あらいあげ はくさいもつまも 輝けリ) のむら・としろう