第七百五十五夜 橋本多佳子の「橇」の句 

   雪後          梶井基次郎
   
 「ぼくはおまえを愛している」
 ふと少女はそんな囁きを風のなかに聞いた。胸がドキドキした。しかし速力が緩み、風の唸りが消え、なだらかに橇が止まる頃には、それが空耳だったという疑惑が立篭める。
 「どうだったい」
 晴ばれとした少年の顔からは、彼女はいずれとも決めかねた。
 「もう一度」
 少女は確かめたいばかりに、また汗を流して傾斜をのぼる。――首巻がはためき出した。ピュピュ、風が唸って過ぎた。胸がドキドキする。
 「ぼくはおまえを愛している」
 少女は溜息をついた。
 「どうだったい」
 「もう一度! もう一度よ」と少女は悲しい声を出した。今度こそ。今度こそ。
              『檸檬・ある心の風景』旺文社文庫
                   
 橇は雪国の交通手段。西行の『山家集』にも詠まれている古くからの乗り物。馬や犬が引くほかに、人が引き、押すものもある。重いものを少し軽く引いてゆくことができる。
 スキー場で、一度、橇に乗ってみたくて二人乗りの橇を借りて、リフトで上まで行って滑り降りたことがあった。どんどんスピードが出て、留め方が難しくて、「キャーッ!」と叫びながら、ふわっとした雪溜まりへ飛び込んでしまったことがあった。
 
 今宵は、「橇」の作品を見てみよう。
 
■「橇」

  橇がゆき満天の星幌にする  橋本多佳子 『橋本多佳子句集「海燕」』
 (そりがゆき まんてんのほし ほろにする) はしもと・たかこ

 雪国へ旅行した時のことであろうか。戦後生まれの76歳の私でも、スキー場へ遊びに行くことはあっても、橇ではなく、チェーンを付けたバンの車でスキー道具一式ともにスキー宿へ送迎してもらっていた。
 
 橋本多佳子は、明治32年、東京の生まれ。1924年、多佳子は実業家の夫と北原白秋とともに、樺太・北海道を旅行したという。掲句はそうした折に詠まれた作品かもしれない。
 
 いきなりの魅惑的な光景だ。幌付きの橇もあるのであろうが、ここでは違う! 橇が走るにつれて満天の星空は後ろへ後ろへと去っていくものだが、橇に乗っている多佳子にとっては、満天の星を背負っているようだという。
 それは・・まるで満天の夜空の星々を幌のように感じていたというのである。
 
 事実を詠んだものである。だが、夢の中の出来事なのか童話の世界なのか、この作品を読む吾々は、なんだかお姫様にでもなった気分にさせられてしまう!

 橇は、「雪舟(そり)」「雪車(そり)」「犬橇(のそ)」「馬橇」などがある。