第七百五十六夜 西島麦南の「煮凝り」の句

  しっと                 曾宮一念
  
 一瞬にして純情も邪悪に
 眼の清澄が消え、皮膚の艶が褪せる
 心肝は焦げ脾胃は腐虫の巣となる
 静観なく把握なく洞察なく創造なく
 犬や猫のそれは可憐なのに
 どうして人間のは醜いのか
 遠き大望に、近き一歩の間に
 この醜さの入る隙を置くな
      (昭和33年4月)『榛の畦みち・海辺の溶岩』講談社文芸文庫
 
 今日は、平成6年(1994)12月21日に亡くなられた日本の洋画家、随筆家、歌人の曾宮一念の忌日である。出版社蝸牛社を立ち上げた際、先輩編集者のお力添えで、エッセイ集を続けて出版した。その1冊目が曾宮一念の『砂上の画』であった。
 次の句は、筆者が作者との交流の中で詠んだものである。

     曽宮一念画伯逝去 3句
  盲てもなほつつまるる冬夕焼  あらきみほ
  雪鬼となりて一夜はかへり来よ  々
  数え日や百一歳は星粒に
     曾宮一念夫妻のお別れ会 2句
  黙祷のまなうら臘梅増えつづく  々
  悲しくチェロ悲しくハープ木菟の耳  々

 今宵は、「煮凝り」の作品を紹介してみよう。
 

  煮凝りの魚の目玉も喰はれけり  西島麦南 『現代俳句歳時記』角川春樹編
 (にこごりの うおのめだまも くわれけり) にしじま・ばくなん

 煮凝りとは、ゼラチン質の多い鯉、鮒、鯛、鰈、すけそうだらや鶏肉などの煮汁が冷えてゼリー状に固まったもので、ツルッとした独特の風味が好まれる。
 この煮汁がゲル化する性質を利用して、煮込んだ材料ごと冷して固めた料理のことも指す。地域によってはこごり、こうごり、こんごりなどとも呼ばれる。
 魚などの煮汁が、冷えて固まったもの。また、魚などを柔らかく煮て、煮汁ごとゼラチン・寒天などで固めた料理をいう。

 私の父が好きだったのは、ブリのアラ(粗)で、頭、カマ、腹の身、背骨など、刺身にしたあとの残りである。魚屋さんで皿に盛ったアラを見つけると、買ってくることがある。「お母さんのように上手に煮ると、これが、じつに旨いんだよ!」と、夕食のお酒のツマミとして骨や目玉までしゃぶっていたことを思い出す。
 そして翌日の冷蔵庫には、煮付けの残りものの煮凝りが出来ている。それが楽しみであった
 私の両親は、大分県の竹田の近くの出身で、海からは遠かった。
 
 一方長崎県の島原出身の夫の家では、魚は豊富であったし、義母が魚料理が得意でお刺身を上手に捌いていたので、残ったアラも美味しく煮付けていた。
 
 掲句は、タイかカレイだろう。煮付けにして美味しく、最後に残った煮凝りの目玉もじつに旨そうに食べてしまいましたよ、となろうか。