第七百五十七夜 正岡子規の「湯婆」の句

 今宵は、宮坂静生著『子規秀句考-鑑賞と批評』より「湯婆」「時雨」の作品を見てゆこう。


  碧梧桐のわれをいたはる湯婆かな  正岡子規  
 (へきごとうのわれをいたわる たんぽかな)  

 明治28年、正岡子規は、戦役従軍記者として赴いた中国から帰途の戦中で2度目の大喀血。脊椎カリエスとなった子規は、以降は病臥生活となる。俳句の弟子の河東碧梧桐や高浜虚子、短歌の弟子の伊藤左千夫など多くの弟子が代わり合って、夜昼となく看病をしていた。中でも碧梧桐と虚子は必ずどちらかが傍にいた。
 
 掲句は、病臥生活となっていた明治29年12月30日の作である。
 冬になると、その日の看病当番の碧梧桐が湯婆を用意してくれた。子規は労ってくれる碧梧桐の気持ちはよくよく分かってはいたが、子規にしてみれば、小柄な虚子が傍にいてくれる時の方が、ホッとするものがあったという。
 

  小夜時雨上野を虚子の来つゝあらん  正岡子規
 (さよしぐれ うえのをきょしの きつつあらん)

 「病中二句」の1つ。上野は東京都台東区の寛永寺や上野公園のある高台で、根岸の子規庵に行くには、虚子は上野の山を抜けて寛永寺坂を下って行くのである。
 
 夜になって時雨がきた。今宵の看病の当番は虚子だ。子規は、虚子が雨の中を、上野の山を抜けてひたすら根岸の子規庵へ向かっていることを刻々と感じながら、虚子が来るのを今か今かと心待ちにしている。
 冬の夜の時雨の雨音は、病臥の身の子規に、殊更に人恋しさを募らせていた。


  しぐるゝや蒟蒻冷えて臍の上  正岡子規
 (しぐるるや こんにゃくひえて へそのうえ)

 「病中二句」の2句目。脊椎カリエスを病んでいた子規は、膿んだ腹部には膿の出る穴があって、つねに包帯を代えたり消毒をしたが、余りの痛さに泣き声をあげたという。
 
 掲句は明治29年冬の作。温めた蒟蒻は、湯婆の代わりに腹部にのせていたが、うそ寒い時雨の降る夜のこと、蒟蒻はいつの間にか冷えてしまって、子規の臍の上にちょこんとのっていましたよ、となろう。
 
 根岸の子規庵跡を訪ねた折に、子規の身体に開いた穴を墨で記した図を見た。穴は5つほどあったように思う。
 子規庵の庭に、その穴の場所を印した図が貼られていた。学芸員の方にお聞きすると、「こんな辛い身体であれだけ食欲があったということは、やはり、若さだったのでしょう。」と言っていたのが印象的だった。


  祝宴に湯婆かゝへて参りけり  正岡子規
 (しゅくえんに ゆたんぽかかえて まいりけり)          

 宮坂静生著『子規秀句考―鑑賞と批評』によれば、湯婆は、「たんぽ」でなく「ゆたんぽ」とルビを振って読ませている。
 
 祝宴とは、画家の中村不折の画室開きのこと。中村不折は、子規も勤めていた新聞『小日本』では挿絵を担当。不折の画室は、現在も子規庵から200メートルの距離にあり、平成12年には「台東区立書道博物館」としてオープンしている。
 
 明治32年12月26日、呼ばれた子規は、酒一升と闇汁用の野菜を持参した。句に詠んだように、湯婆を抱えて出席した。この頃の子規は、時にはこうして出かけることもあったが、寝たきりで過ごしていた。