第七百五十八夜 桂信子の「冬至」の句

  良い句を書き写す       深見けん二

 写生をする時に、ある焦点が定まって心に感動が起きても、それを表現する言葉、その感動を表すのに、最も適した言葉が見つからなければ、俳句にならない。その表現法を身につけるのに、良い句を覚えておくのが、その方法の一つであることは言うまでもない。私も作り始めには、虚子編『新歳時記』を、くりかえし読んで、何時か覚え込んだ句も多く、それに何よりも、虚子先生、青邨先生、更に初期には深川正一郎先生の句を暗記していたものである。(略)
 もう一つ大事なことは、よい句をただ頭で覚えるのではなくて書いて覚えることである。今年も虚子先生の花の句を改めて読み返し、その二十句を書き写したが、また、新しい発見があり、深く味わえる句が出て来た。一字の措辞の大事さも書くことによって知る場合がよくある。(後略)   (深見けん二著『折にふれて』より)

 今宵は「冬至」の作品を見てみよう。


  人去つて冬至の夕日樹に煙り  桂 信子 『桂信子全句集』
 (ひとさって とうじのゆうひ きにけぶり) かつら・のぶこ

 「煙り(けぶり)」の解釈に、私は迷った。年末の茨城県つくば市の洞峰公園の洞峰沼でのことだ。沼の西側から東側の大樹へ、夕日が真っ向から当たる様を見た。夕日は先ず大樹の根に当り、日は沈むにつれて光線の角度は高くなってゆくから、まるで大樹を駆け上ってゆくように上へ上へと移動する。そして、木のてっぺんに着くや、それ以上の行く先は天しかないということだから、夕日は天に消えたのだと思った。
 
 人が居るときには夕日は人を照らしているが、人がその場を去ってしまうと、夕日はどこを照らし出そうかと迷った。冬至は夕べの暮れる時間も早い。冬至の夕日は照らす目標を大樹に決めて、この樹に、くすぶるかのように留まっていましたよ、ということなのだろうか。
 桂信子は、その最初の瞬間を詠み留めたにちがいない。


  犬の眼に冬至の赤い日が二つ  川崎展宏 『川崎展宏句集』
 (いぬのめに とうじのあかい ひがふたつ) かわさき・てんこう

 今日は冬至。広い枯田の向うの土手に沈む冬至夕焼が見たくて、夫を連れ出し、犬のノエルも一緒に連れて行った。沈む30分ほど前から眩しいほどの夕日を眺めていた。見上げた空には大きな雲が流れている。ももいろの雲であった。犬は、太陽も月も興味がないのか見上げることはしないが、何かの拍子に、犬の眼に映っているものに飼主の私が気づくことがある。
 
 掲句の作者川崎展宏氏は、愛犬との散歩の折に、冬至の赤い日が、愛犬の両眼のそれぞれに映っていることに気づいた。夕日は赤いことは知ってはいても、このように詠まれると、犬の眼そのものが赤いと思われて怖さもすこし感じた。