第七百六十三夜 田中ひろしの「冬銀河」の句

  風立ちぬ          堀 辰雄

 私は数年前、屢々、こういう冬の淋しい山岳地方で、可愛らしい娘と二人きりで、世間から全く隔って、お互いがせつなく思うほどに愛し合いながら暮らすことを好んで夢みていた頃のことを思い出す。私は自分の小さい時から失わずにいる甘美な人生へのかぎりない夢を、そういう人のこわがるような苛酷なくらいの自然の中に、それをそっくりそのまま少しも害わずに生かして見たかったのだ。そしてそのためにはどうしてもこういう本当の冬、淋しい山岳地方のそれでなければいけなかったのだ・・。
 ――夜の明けかかる頃、私はまだその少し病身な娘の眠っている間にそっと起きて、山小屋から雪の中へ元気よく飛び出して行く。あたりの山々は、曙の光を浴びながら、薔薇色に赫いている。私は隣の農家からしぼり立ての山羊の乳を貰って、すっかり凍えそうになりながら戻ってくる。それから自分で暖炉に焚木をくべる。やがてそれがぱちぱちと活溌な音を立てて萌え出し、その音で漸っとその娘が目を覚ます時分には、もう私はかじかんだ手をして、しかし、さも愉しそうに、いま自分達がそうやって暮している山の生活をそっくりそのまま書き綴っている・・。
  (『堀辰雄全集 第1巻』筑摩書房より)

 今宵は「冬銀河」の作品を見てみよう。

■冬銀河

 1・冬銀河巖より暗く海ありぬ  田中ひろし
  (ふゆぎんが いわよりくらく うみありぬ) たなか・ひろし

 冬の夜の海は一際暗く感じられる。私たち夫婦が長崎市に住んでいた頃だ。若かった私たちは突然夜の海が見たくなった。少し車を走らせると海辺に出る。夫は石投げをしていたが、ポケットに持っていたテニスボールを投げた。波が岸へボールを打ち寄せてくれることを期待したが、波間にぷかぷか浮かんだままだ。
 すると、夫はパンツ姿になるや、海に飛び込んだ。ボールは回収したが、ぶるぶる震え出した。町中に戻るとお風呂屋さんがあったので、一風呂浴びて一心地ついた。
 
 田中ひろしさんの「巖より暗く海ありぬ」を見て、50年近い昔を思い出した。夫が海へ飛び込んだ時、恐怖からだろうが、私には海が黒々と見えたのだった。
 田中さんの見た景は逆に、暗い海の中で、海に突き出た巖は、冬銀河の煌めきを受けて白じろとしていたのであろう。

 2・冬銀河青春容赦なく流れ  上田五千石
  (ふゆぎんが せいしゅんようしゃ なくながれ) うえだ・ごせんごく
 
 冬銀河とは、冬空の天の川のこと。大きな雲かと思うような、白くうっすりとした塊が見えることがある。星の本で調べてみると、雲ではなく星の塊の天の川だという。天の川がはっきり見えるのはどうやら秋が一番のようである。
 
 上田五千石の作品はどこか若々しい。青春時代は誰もが、多くの出合いがあり様々の経験をする、思い返せば、まさに透きとおった素敵な日々に満ちていた。他の季節に見える天の川よりも、鋭い光を放つ冬銀河は青春時代の輝きに似ている。しかもその輝きは容赦なく流れてしまうという。

 2句共に、『現代俳句歳時記』角川春樹編から選ばせて頂いた。