第七百六十七夜 鷹羽狩行の「初夢」の句

 1月3日。「箱根駅伝」の2日目の今日は、昨日の往路が優勝していたこともあって、8時前からテレビに向かっていた。いつもは時々覗き、結果が決まる頃からテレビの前に座るという視聴者であった。大学時代の友人からの「ぶっちぎりで勝ってほしい!」という強烈なメールが入ってきた。娘が、ブルーマウンテンコーヒーを点ててくれたし、腰を据えて観ることにした。
 今まで気づかなかったことも目にした。ランナーの直ぐ後ろを原監督を乗せた車が走る。じつに塩梅よく、原監督は選手に声をかけている。選手は右手をひょっとあげる。ああ! これが師へのありがとうの挨拶なんだ! いいな!
 
 友人の「ぶっちぎり」は、実現した。青学大は2位の帝京大を、6区から既に2分37秒54秒も離してのスタートだったこともあるが、復路は6区から10区まで抜かれることもなく、区間新記録が出た。
  最終的には、東京・読売新聞社前~箱根・芦ノ湖間を往路5区間(107.5Km)、復路5区間(109.6Km)の合計10区間(217.1Km)で競う、学生長距離界最長の駅伝競走の新記録を達成した。
 
  母校青学大の記録は、往路復路の合計タイムは10時間43分42秒であった。
  原監督の直後のコメントでは、走者の皆の「自立」できていた結果であると述べていた。

 今日は、「初夢」の作品を見てみよう。

■1句目

  初夢の落ちし奈落の深かりき  鷹羽狩行 『新歳時記』平井照敏編
 (はつゆめの おちしならくの ふかかりき) たかは・しゅぎょう

 俳句の大結社の主宰である鷹羽狩行氏は、自らも俳人として常に第一線に立ちつづけなくてはならない。ある意味、闘いつづけていなくてはならない立場の人は「奈落」という地獄とともに居る人であり、これ以上はどうにもならない物事のどん詰まりの境遇と常に裏腹に居る人でもあるのだろう。
 
 ある年の正月の初夢に、鷹羽狩行は奈落に落ちた夢を見た。その奈落は驚くほどの深さであった。だが初夢でよかった。地獄に落ちた苦しみは夢の中であったのだ。

■2句目

  初夢の大きな顔が虚子に似る  阿波野青畝 『新歳時記』平井照敏編
 (はつゆめの おおきなかおが きょしににる) あわの・せいほ

 阿波野青畝は、「ホトトギス」の「四S」の作家と言われた一人。このようなエピソードがある。
 
 客観写生ばかりの「ホトトギス」の当時の風潮に対して、青畝は不満の手紙を虚子に出したことがあった。
 「ご不平の御手紙を拝見しました。(略)しかし私は写生を修練して置くということはあなたの芸術を大成する上に大事なことと考えます。今の俳句はすべて未成品で其内大成するものだと考えたら腹は立たないでしょう。そう考えて暫く手段として写生の練磨を試みられたらあたなたは他日成程と合点の行く時が来ると思います」と、虚子はその不満に対して青年の青畝に答えた。
 大正末期から昭和にかけて「ホトトギス」の隆盛を築いた俳人は、皆、この写生修業を行っていた。
  山又山山桜又山桜  青畝
 山と山桜しかない世界で、たった2つの名詞を並べただけの見事な省略ぶりであるが、ここに確かに吉野の山中が描かれた。
 
 青畝にとって、初夢に現れた大きな顔は、まさに青畝にとって大きなお方である虚子に似ていたのであった。