第七百七十七夜 河東碧梧桐の「冬薔薇」の句

 2018年の11月の初めのこと。車から降りる夫を支えようとした瞬間、酔っていた夫は転び、私も転がってしまった。酔っていた夫は何事もなくケロッとしていたが、私の方は大腿骨頸部骨折で入院となった。手術した病院に1と月、リハビリテーション病院に1と月入院した。
 出産以外では初めての入院である。忙しい主婦から、突然、看護師さんとお医者さんが何もかもしてくれる生活がはじまった。こんなに楽しい入院生活ができたのは、病気ではなく怪我で、しかも痛みはなかったからかもしれない。
 
 冬薔薇は、リハビリテーション病院の、3階の病室からリハビリ室への行き来の窓に見下ろす中庭に咲いていた。外で見たいなあと願った。冬薔薇が咲いているうちに退院が叶うかしら・・やがて、若い背の高い看護師さんと冬薔薇の庭を歩くリハビリがあった。外歩きの練習は最後の2日間であった。その折に詠んだ「冬薔薇」句。

  かじかみて試歩の右足左足   みほ
  一本の冬薔薇天の引きしまり
  中庭や渦のこがらし逃げ場なし
  小鳥とも蝶ともなりて木の葉飛ぶ

 今宵は、「冬薔薇」の作品を見てみよう。

■1句目

  思はずもヒヨコ生れぬ冬薔薇  河東碧梧桐 『碧梧桐全句集』蝸牛社
 (おもわずも ヒヨコうまれぬ ふゆそうび) かわひがし・へきごとう

 明治39年、碧梧桐が第1次全国旅行をした折の仙台での作品である。
 この句は、真冬にひょっこり生まれたヒヨコの光景と、いつ咲いたとも知れない「冬薔薇」という季題と、この2つを配合することで、作品に一種独特の暖かな雰囲気を出すことができた。
 大須賀乙字(おおすが・おつじ)は、碧梧桐派のこの作品により、季語に象徴性をもたせる「暗示法」の句が現れたことを示唆した。
 
 この作品が新聞に発表されると、乙字は、冬薔薇が咲き、思いがけずヒヨコが生まれるという一見関係なさそうな2つの事柄を配合して日和つづきの冬の陽気を暗示した句であるとし、これを「新傾向」であると指摘した。
 
 季題と事柄との二句からなる作品を、「配合」または「二句一章」と呼ぶようになったが、現代俳句においては、すでに当たり前となっている俳句の詠み方である。
 
 大須賀乙字は、1881年(明治14)-1920年(大正9)、福島県生まれの俳論家。碧梧桐門下。新傾向俳句運動のきっかけは乙字の論文「俳句会の新傾向」であり、碧梧桐とともに「海紅(かいこう)」を創刊。荻原井泉水(おぎわら・せいせんすい)の結社「層雲」の選者をし、臼田亜浪(うすだ・あろう)の「石楠(しゃくなげ)」を助けるが、いずれとも袂を分かつことになった。

■2句目

  冬ばら抱き男ざかりを棺に寝て  中尾寿美子 『新歳時記』平井照敏編
 (ふゆばらだき おとこざかりを かんにねて) なかお・すみこ

 お通夜の会場に入った作者の中尾寿美子は、置かれた棺に近づいた。棺に横たわっている若い男の胸には冬薔薇の束がのせられていた。
 その男の姿を、「冬ばらを抱き」「男ざかりを棺に寝て」と詠んだ。死者に対して、ぶっきらぼうとも感じさせる言葉である。
 寿美子の愛した男であったかもしれない。だが男は冬ばらを胸に抱いているから、寿美子の知らなかった家族がいたのだろうか。駆けつけたけれども、寿美子の心のもやもやは増すばかりだ。
 
 難解な作品を詠む俳人であるから、この解釈でよいのか分からないが・・。

 中尾寿美子のプロフィールは、大正3年(1914)生まれ、平成元年(1989)、75歳で亡くなった。秋元不死男門から永田耕衣門へと変えるという異例の経歴である。句集は、『天沼』『狩立』『草の花』『舞童台』『老虎灘』『新座』の6冊の句集を残している。