第七百九十夜 宮下翆舟の「ちやんちやんこ」の句

   明るい心をもつ     佐伯泉澄
   
  心暗きときは、即ち遇う所悉く禍(か)なり。
  眼明(まなこあきら)かなるときは、即ち途に触れて皆宝なり。
              (性霊集巻8・72、全集3・497-8頁)
                    
 ――心のなかが晴れず、ウツウツとして楽しまない暗い時には、何に出会っても腹立たしいばかりで、面白くないものだ。
 こんな陰鬱な気持ちが、実は不幸を招くもととなる。
 心のなかが明るく伸び伸びとしている時には、目に写るもの悉くが力いっぱい躍動しているかのように楽しく見え、そこに宝のような素晴らしい価値が生み出される――と。
            (『弘法大師 空海百話』東方出版より)

 今宵は、「ちやんちやんこ」の作品を紹介してみよう。作品からは様々な光景が見えてきた。

■1句目

  ちやんちやんこ着せ父大事母大事  宮下翠舟 『新歳時記』平井照敏編
 (ちゃんちゃんこきせ ちちだいじ ははだいじ) みやした・すいしゅう

 ちゃんちゃんことは、綿入羽織の袖のないもので、幼児や老人が用いたという。また、長寿の祝いにプレゼントするという。還暦を迎えた父や母には赤いちゃんちゃんこを着せてあげる。喜寿や米寿や卒寿など、揃って高齢になった父と母には仲良くお揃いのちゃんちゃんこを着せてあげたりする。
 
 父母が元気で長生きしてくれるのは、子にとっては何より嬉しいことである。掲句は二句一章の作品であるが、とくに、後の10文字の「父大事母大事」と簡潔に言い得た措辞が、なんと素晴らしいことであろうか。
 宮下翠舟氏の、「長生きしてくれてありがとう」という感謝の気持ちが強く伝わってきた。

■2句目

  黒板に向く山の子のちやんちやんこ  大串 章 『蝸牛 新季寄せ』
 (こくばんに むくやまのこの ちゃんちゃんこ) おおぐし・あきら

 学校の授業中の一コマ。「山の子」とあるので、山から歩いて通ってきている子であろう。その子は、ちゃんちゃんこを着て登校していた。黒板に向かっている子は、答えが分からなくて考え込んでいるのか、それとも、白いチョークで答えを書いているところなのだろうか。
 
 作者の意図は、「山の子」をクローズアップさせるための、季語「ちやんちやんこ」であったのか、「黒板」をクローズアップさせるための、「ちやんちやんこ」であったのか迷った。
 だが、黒板の前で戸惑っている山の子は、ちゃんちゃんこ姿によってはっきり見えてきた。
 
 大串章氏は、昭和12年(1937)、佐賀県嬉野市の生まれ。平成14年(2002)より俳人協会理事、平成29(2017)年より俳人協会会長。

■3句目

  ちやんちやんこ着て屈託もなき猫背  渋沢渋亭 『カラー図説 日本大歳時記』
 (ちゃんちゃんこきて くったくもなきねこぜ) しぶさわ・しぶてい

 掲句の「屈託もない猫背」とは、ご自身のことではなき、父である渋沢栄一のことではないだろうか。大実業家である父栄一もわが家では、仕事上の気がかりなど思うことなく競争相手の敵もいない。父は、綿入ちゃんちゃんこを着て暖かく心地よさそうに、猫背という無防備ぶりを見せてやすらいでいましたよ、という句意になろうか。

 渋沢渋亭は、1892年(明治25)-1984年(昭和59)、日本の大実業家渋沢栄一の四男の渋沢秀雄のことで俳号を渋亭という。父の栄一と同じく渋亭も実業家であり、さらに随筆家であり俳人でもあった。